上海からの手紙

上海からの手紙 あんちゃんへ  

 

この書簡は、わたしの母ハルが戦時中養父母とともに過ごした上海から日本の兄( あんちゃん)に宛てたものです。ここに掲載した手紙や写真は母が昭和49年に他界した後の一周忌の法事のときにその兄(叔父)からいただいたもので 100通にもなります。すべて母から兄に宛てた手紙で兄から母に宛てた書簡は遺されていません。したがって片道書簡集です。この片道書簡集では妹の兄に対する思いはわかりますが、兄の 妹に対する思いは推し量るしかありません。その兄も今は既に他界しております。

 

手紙の差出日には年号の記載はなく日付しか書かれておらずその日付すらないものもあって、順序がかなりあやしくなっております。また異国の地で何度も夢を見たというおっ母ちゃんの死や兄の結婚、ハルの転職といった重要なことについて書かれた書簡がありませんでした。 したがって兄からいただいた手紙は、母が兄に出した手紙の一部ではないかと思われます。 

  
手紙の実物はすべて縦書きで書かれ、使われた便箋は通常の便箋以外に原稿用紙や会社便箋、タイプ用紙、ノートを切り取ったものなど、ペンは万年筆以外に鉛筆書きも多い。多くは仕事中や昼休みそして就寝前などに急いで一気に書いたと思われます。 訂正や推敲などなく心に思うところを日常のことばで澱みなく表現しており、内容も病気やお金のことなど切実なことが多く、とても現実感にあふれたものです。とくに不運にも住まいを転々とした実の母や妹の恵美子そして病気の兄に対する思いや送金のことについて何度も何度も書かれています。 


終戦
後、兄は国鉄の機関士として定年まで働きながら小説や短歌などを鉄道の同人誌に発表していたようです。 一方16才のとき上海に渡航したハルは、 手紙の中にもありましたが「結婚するなら頭脳明晰な」父と上海で出会い 24才のとき上海で結婚、終戦とともに日本に引き上げ実業家の妻としてこれまでのような身を削るような経済的な苦労はなく、 また3人の子の母親として手紙の中で書いたように、「自分の生んだ子を母親としての愛情をもって」育てることができたようです。そして故郷の佐世保や博多の兄弟、上海で一緒に暮らした恵美子のことを思い続けていたに違いありません。姪であり妹であった恵美子は、上海の養父母とともに佐世保に引き上げ、婿養子を迎え家を継ぎました。 

 

兄から手渡されたものには、これらの書簡の他に「早鉄クラブ文芸誌」という同人誌がありました。 これは兄が国鉄時代に入っていた文芸クラブの同人誌です。 その中に妹のハルが亡くなった昭和49年に妹のことを書いたと思われる短歌が掲載されていました。上海時代から30年も後に書かれたその短歌で わたしははじめて兄の妹に対する思いを知ることができました。この書簡集「上海からの手紙」は第一次世界大戦が始まる直前に、上海から故国の兄にあてた手紙です。兄に対する妹の深い情愛に満ちた手紙です。そうして30年が過ぎて異国に地に先立った妹に対する兄の恋人のような思いを知って、わたしは涙があふれて止まりませんでした。ハルは53歳のとき悲運な事故に遭遇しその日のうちに人生を絶たれました。 その訃報を遠く離れたところで聞かされた兄は、いったいどんな思いだったろうか。
青春時代にハルがあんちゃんに懸命に書いたこの 「上海からの手紙」を想い出しただろうか  

     

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・黒髪は乱れたるまま血のこびり蒼白な顔よ妹眠るごと

・蜂ケ峰※四季花匂う奥津城ゆ安かに眠れ先きつわが妹よ

・夕昏れて一羽烏の西にゆくわが思い妹の魂や導びけ

・ゆき暮れてともし灯もなく妹は逝く黄泉路の国そ母迎え来ね

・もの思いつ涙流るる時のあり冬ざれの夜をひとりいるとき

・冬去らば吾れやひとり旅ゆかむ思いもむなしくづれゆく春

・朝に咲き昼はや萎む朝顔の短かき命に思い至りぬ  

 (早鉄クラブ文芸誌 シグナル 第14号より 林政一)

蜂ケ峰・・・大阪府堺市鉢ケ峰霊園のこと

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・・何時も苦しい時はあんちゃんへ夜通し書きます、でもやはりいらぬ心配かけてもとまた破る事が何度かあります。誰にも頼る人もないあたしどうして故国の兄を忘れようか、一日たりとも忘れた事はないつもりですのよ・・

 (上海からの手紙より 林ハル)

 

ハルは戸籍上の名前で女学校時代は春子,上海時代ははる子、結婚してからは治子と称した。 姓は林から養女先の宮崎そして結婚して青木となった


書簡集とは?その背景はどのようなものだったか?

五男六女の大家族に生まれたハルは、父の死と生活苦から昭和11年16歳のとき23歳年上の長姉の養女となり、軍人であった養父に連れられて上海に渡航。上海日本高等女学校を卒業し海軍主計科武官室に勤務その後民間会社に転職。同じ姉に引き取られた長兄の子恵美子はハルとは10歳年下の姪であったが戸籍上ハルの妹となった。ハルはタイピストとして仕事をしながら母親がわりとなって恵美子を養育した。昭和12年の上海事変の翌年から太平洋戦争勃発後までハルが最も敬愛する四番目の兄に出した100通もの書簡集です。戦争を背景に異国の地で働きながら故国日本の実母や兄に送金を続けた一人の若い女性。家族に対する切実な思いや孤独感等を綴ったもので生命感あふれる書簡集です