Haru's Letters from Shaghai

上海からの手紙

 あんちゃんへ

                         林 ハル著

 

五男六女の大家族に生まれたハルは、昭和11年16歳のとき23歳年上の長姉の養女となり、軍人であった養父に連れられて上海に渡航。上海日本高等女学校を卒業し海軍主計科武官室に勤務その後民間会社に転職。同じ姉に引き取られた長兄の子恵美子はハルとは10歳年下の姪であったが戸籍上ハルの妹となった。ハルはタイピストとして仕事をしながら母親がわりとなって恵美子を養育した。昭和12年の上海事変の翌年から太平洋戦争勃発後までハルが最も敬愛する兄に出した100通もの書簡集です。戦争を背景に異国の地で働きながら故国日本の実母や兄に送金を続けた一人の若い女性。家族に対する切実な思いや孤独感等を綴った書簡集です。生きることさえがたいへんだった時代。今あらためて生きるとは何か、家族とは何かを考えさせられる書簡集です 

   

目 次

               

序 章  あ ん ち ゃ ん の 入 隊

第1章       ハル上 海 に 渡 航 す る

第2章    戦 跡 見 学と傷 病 者 慰 問

第3章   上海から戦地のあんちゃんへ

第4章   病床から療養中のあんちゃんへ

第5章   どうして故国の兄を忘れようか

第6章   上 海に姪を引き取る

あとが き

 


上海からの手紙 あんちゃん①

     序章 あんちゃんの入隊    

 

 あんちゃんが入営して急に家の中が寂れ果てて仕終った様な気がいたします。おっ母ちゃん※も御蔭で達者で暮らして居ります。それに私も十六日の船で内地を出発つ様になりましたので なほ力落としおっ母ちゃんが病気でもすまいかと心配しております。でも もうあきらめているらしいのです。だいたい昨日面会いいえ別れに来る筈だったのですが、今日昨日はもうくんれんらしいけん末ちゃんが行くまいって言うじゃないですか。会って一時間でも貴重な時間を費やせば結果 まさちゃんのためによくないらしいと云うので面会に行くの思い止まって居るのです。お守りや他色々ちゃんと一まとめに置いていますから後で末ちゃんに持って行って貰う様にして居ます。もう皆居ない様になればおっ母ちゃんは大きな兄ちゃん※とこに行く様に言っています。でも今いる所がなくなるまであそこに居る様に言っています。 あんちゃんが兵隊よりかえって来るのを一つの楽しみに生きてゆく様な気持なんでしょう。でおっ母ちゃんのためまた うちがためまた 文ちゃんのため 皆のためえらくなって かえって来て下さい そして うちは大きな兄ちゃんに安心しておっ母ちゃんを託して上海に行くのは本当に心配でなりません。それは兄ちゃんも皆知っていることでしょう。・(省略)・と思えば心配でなりません。 でくれぐれも大きな兄ちゃんが面会に来た時はおっ母ちゃんをたのんで下さい。あんた安心しとっていいとよ。やせてもかれても兄貴は兄貴やろ馬鹿でも兄貴やも。心配せずに私も上海に行きます。そんな事姉さん※がさせるもんね 義理としてねー
 あんちゃん。

兄ちゃん軍隊生活と云うものも略々つかめた事でしょう。要領よくやって下さいね。要領がよかったらすぐ上等兵にはきやすいこったいね。でも上の人の機嫌をとったりなんだりするのは絶対にない様にね。うちそれは大嫌いです。正義は如何なる不正にも障がいにも克つというじゃないですか。そんな事までして上等兵すなわちきんすじ三つにならなくても結構です。 うちそんな事してなってもちっとも嬉しかありません。
 じゃあまり長くなるからこれでペンを置きましょう。しっかり働いて下さい。うち博多 には十五日の朝迄居ります。実際会いに来られないのは残念だって言いたいのです。あの時でもうち久留米は是非ついて行きたかったけど已む得なかったもんね。行って会えるなら今でも行きたい様な気がします。

グートバーイ

あんちゃんへ     はる子より             
 文ちゃん
※博多駅で泣いていたのよ あの時

 昭和十三年一月十三日
  (
ハル17歳のときの手紙) 

 ※あんちゃん・・・ハルの4番目の兄 政一。手紙の中ではあんちゃん・兄ちゃん まさちゃん・ 政ちゃん・兄上様という呼び方をしている 

※おっ母ちゃん・・・ハルの実の母
※末ちゃん・・・ハルの3番目の兄 末一
※大きな兄ちゃん・・・ハルの一番上の兄 富士松

※姉さん・・・ハルの一番上の姉で上海の養母

文ちゃん・・・不明  


上海からの手紙 あんちゃんへ②
 
序章 あんちゃんの入隊

 

元気で務めて居るか。お前が入営してからもう三日も過ぎた。月日の流れるのは早いものだ 此の分なら二ヵ年無事務めて星を三つもらって退営するのもすぐだろう。二三日してから面会に行く心算でいたが来てもかえって迷惑だろうと思っている。だから今度の日曜に面会出来るなら手紙を出してくれ。
 中隊長殿には今日御手紙を出したけど、班長殿やら準尉が名前が判らぬから知らせてくれ。寒いからシャツをもう一枚持って行くから。せんたくするのにもキガエがなくて困るだろう。それから白のアヤシャツもいればもっていく。
 上官の命令をよく聞いて早く一人前の軍人になってくれ。母も元気で居る。内の事は決して心配するな。他に何かほしいものがあれば軍隊で赦される限り買って行くから云ってやれ。
 じゃ元気で勤めよ 
  

政一殿                  
昭和13年1月13日 

 

ハルの3番目の兄末一が4番目の兄政一(あんちゃん)にあてた書簡写真左末一 右政一 

 

 


上海からの手紙 あんちゃんへ③
第1章 ハル上海に渡航する

 

兄ちゃん 此の間の御手紙見ました?
 唯今、上海に到着いたしました。

上陸いたして見ると国際都市としてあれ程繁華を極めた上海でありますのに、その全影は見るも悲惨な情態です。全くすべてが さながら死の上海では有りませんか。賑やかな街々が全部頭を並べて討ち死にしている様子は何とも言えない寂寞の感にうたれました。 唯歩道を通行するものは自動車ばかりです。事変前を知って居る私達は余にも変わり果てた上海を見て暫しボウゼンとならしめました。でも黄浦江(ワンポコウ)を通過する時は戦利品のそれぞれに日の丸の旗が勇まし くたゆたってみえるのには、実際飛び上がる程嬉しう御座いました。 江岸の大きな建物にひらめいている我が国旗を目撃した時の気持は到底万年筆で現す事は出来ません。その蔭には幾千人の犠牲者を出した事だと思うと、想わず瞼のくもるのをおぼえました。
まだ学校は当分休んで居ります。
では到着のおしらせだけ、くわしい事は後便で御しらせいたしましょう。
呉々も御身御大切に軍務に励んで下さいませ。かしこ 

一月二十日午後九時五十分(日本時間)  

妹より 兄上様

 

上海事変  ・・・第二次上海事変とは、1937年8月13日に起こった日本軍と中華民国軍の戦闘である。双方の戦闘は終わることなく、そのまま日中戦争へと進んだ。 

日中戦争・・・日中戦争とは、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の間に日本と 中華民国の間で行われた戦争を指す。中国では抗日戦争と呼ばれる。                                                               

 

 


上海からの手紙 あんちゃんへ④
第1章 ハル上海に渡航する

 

兄ちゃん 御手紙有難う御座いました。
兄ちゃんが大変元気で働いていらっしゃるときいて、うち すっかり安心いたしました。十五日の日、博多を出発しました。うち どんなにか兄ちゃんに面会したかったか知れません。 考えて下さい たった一人の妹が遠い異郷の空に旅立つというのに、一番好きな兄ちゃんと別れも告げずに旅に出たうちの心中をどうぞ察して下さい。どんなにか会っていきたかったでしょう。末ちゃん
が十四日の日面会に連れて行くというでしょう。十三日の晩はそりゃ喜び勇んで夜通しか かって、 色々兄ちゃんに持っていくものをまとめていたのです。それなのにあの日なってゆかれないと言うでしょう。あの時のうちのがっかり仕方は到底普通の人にはさっする事ができないかもしれません。あの、タイプライター教科書を包んでいた風呂敷に、兄ちゃんのいりそうなものは全部入れて居りますから、おっ母ちゃんが持ってくるでしょう。うちは今のところ、お金を持ってないから、何にも兄ちゃんに買って送る事ができません。 それ が何より残念でなりませんけどうちの兄ちゃんに対する真心だけでも通じれば、うちはそれだけで今は満足いたしております。 後二ヶ月したら、サラリーとる様になります。どうぞその時まで待って下さい。
それから兄ちゃんのお便りで一番嬉しかったのは、一度も上の人からたたかれた事のない事。それをきいて、どんなにかうち喜んでいたかしりません。そればかり心配いたしております。それか らとても うち 飛立程うれしかったのは、あんちゃんの体があんちゃん一人のものでないと、気づいた事です。あんちゃんにはおっ母ちゃんが居ります。強く 強く生きて下さい。老い先みじかい母の為に、そして愛国心の強い熱血児であらん事を・・・・・この二つの事をよく忘れないで下さい     ある程度母の為 兄妹の為 我が生命と云うものも守ってほしいのです。その事が兄ちゃんにじわじわわかりだしたと思えば嬉しくてなりません。 うち軍隊がとても面白いとは、うち兄ちゃんから始めてきいた。こんな事位、軍隊にいると思えばなんでもないって言う人はありますけど。何時迄もいつまでもその通りであって呉れれば・・・・と祈って居ります  でも兄ちゃんならきっと永久に面白い所であるだろうと思われます。そしてあんちゃんが 一刻も早く母のそばにゆく事を、おっ母ちゃんはどんなにか望んでいるかわかりません。うちも後に残して来たおっ母ちゃんの事を思えば身をさかれるほど苦しかったのです。

 

あんちゃんが今度上海に来る様になれるかもしれないって、ですが、本当に来られたら うちどんなに心強いかもわかりません。でも今上海には沢山の兵隊さんが出動して居ります。それに杭州からも沢山来たらしいの。で 上海にあんちゃんがくるのも難しいやろと思います。でももし来られたら軍需部※をたづねていく事です。軍需部がわかればすぐうちもわかります。
それでは余り長くなりますから これでペンを置きます。
 呉々も御身体を御大事に かしこ 一月二十六日
 妹より  兄上様  
   

和子様のおイハイにまいって来ました。かえりに十五日、寄ったら小母様がいっらしゃいました。至急山崎さん方の住所を教えて下さい。     

※末ちゃん・・・ハルの3番目の兄末一のこと

※軍需部 ・・・ ハルの姉の夫である養父宮崎勝が勤務、養父はいわゆる軍属で要職にあったと思われる

 


上海からの手紙 あんちゃんへ⑤
第1章 ハル上海に渡航する
  

兄さん、御手紙有難う御座いました。皆が元気にて暮らしていますことが、うちにとっては何より嬉しう御座います。近頃はだんだん軍隊に慣れて来たって、きっと明るい朗らかな軍隊生活でしょう。 兄ちゃんのヤギヒゲなんかまだいい方です。上海に戦地より帰ってきた兵隊さんは、一寸も五寸ものびて、まるでひげののばっしこの様です。戦闘中、顔そる事もできず戦争がすんでみると、これ程のびたひげを切るのは惜しいなてな具合で、みんないかめしいひげをたくわえていらっしゃいます。
上海にかえってきたとき、一番叱驚いたしたのは上海の街に、沢山の陸軍の兵隊さんがいらっしゃることでした。何処に行っても兵隊さんを見ないとことは決してありません。何んな支那街だった処でも必ず兵隊さんを見受けるのです。で、つくづく日本の兵隊さんがとても頼母しく、痛切に国力の威大さと、しみじみとした心強さを感ずるのでした。 今日の午後、昭和五、六年の上海事変、今度の支那事変の激戦地である三義里の踏切及びその一帯を学校より戦跡見学に行きました。そしてそこで激戦なさった、ときの小隊長だった高橋小隊長よりその当時の奮戦の様子を詳しく説明して頂きました。私達は、そのときの有様を頭の中に描き乍らすっかり感激して仕終いました。そしてその小隊長の述懐談にこんな事を言って居られました。神は我々を加護して下さるということが、戦争している無言のうちに感ぜられること、そして弾と云うものは我々をよけてゆくものだということが判然(はっきり)判りますっておっしゃいました。うちの兄さん※もそのとおりの事を言って居られました。
 

私達はこんな国際都市、いいえ激戦地で、生活していくのも意義深いものです。そして手づから激戦跡を見学できるのを感謝しています。そして生活の・・・事変後ですので随分と何に彼につけ不自由です。その不完全ななかで生活していくのも、その中のどれかに感謝して、その不完全さをおぎなっていくと云う事は、確かに生きる希望に大きな影響を与える事でしょう。
 うちは、兄ちゃんがおっしゃるまでもなく、毎日、毎夜第二の故郷である博多に、懐かしい思い出を楽しんだり悲しんだりしています。決して決して忘れる様な私ではありません。忘れようとしていて何故か瞼の底にまざまざと描き出される博多の事、どうして、忘れることができましょう。父の事だって、そうです。でもうちはセンチメンタルになる様な、沈んだ気持ちには、持ち前の快活さがさせません。で、深く考える事はいたしません。
 

親と云うものが如何に有難いものであるかは、お互い親の傍をはなれて生活していくとき、自ずと判ります。そして恩愛のきずなは永遠に切る事はできないって昔の人が言ってあります。そして哀別は、哀れな愛情で結びつけるかって事を・・・・
 山崎さんの所に手紙を出さないって事は絶対にいけません。入営前彼んなに御世話になって居乍ら、私への御返事は後まわしでいいから、早く御手紙は出したらいいんですのに。うち、住所がわからないのでまだ出していません。今日出しましょう。
 善ちゃん
から手紙が来ました。此の頃の日曜日に面会に行ったそうですね。
 あまり長くなりますから、これにてペンを置きます。
 急いで書いたものですから御判読下さいませ。
 呉々も御身御大切に かしこ

妹より  兄上様   

※うちの兄さん・・・宮崎勝のこと

※善ちゃん・・・2番目の兄 善一 昭和20年比島ルソン島で戦死 

 


 上海からの手紙 あんちゃんへ⑥
第2章 戦跡見学と傷病者慰問

  

兄ちゃん 元気にてお務の事 私もそれをきいて大層嬉しくなりました。
軍隊生活が今の儘だと、兄ちゃんも楽々毎日毎日を過ごされて結構だなあと思って居ります。うちも一日から学校に行って居ります。始めは学校にいくのが厭でならなかったですけど、登校して同級生が喜び懐かしげに うちを迎えてくれるので、後二ヶ月きりか学校生活を味わえないかと思うと、何だか友達と別れるのが名残り惜しい様な気がいたします。最後の女学生生活を有意義に過ごしたいと思って努力いたして居ります。
 此の頃は戦跡見物旁々、傷病者慰問で一日を過ごしました。外科病院へとコースが来たとき想わず国家の為とは言いながら哀れな様子に胸のつまる思いで一杯でした。皆、私達の為に犠牲・・・・と思ってあちこち感激の瞼を (省略)うちも犠牲者の一人一人に、政ちゃんのことを考えるときに胸一杯で暫しそこを立ち去ることができませんでした。でも傷病者の兵隊さん方は皆朗らかでした。
 そして上海で一番新しく奇麗なので誇っていた日本高等女学校も松井集団司令部となって兵隊さん達ばかりになって仕終いました。で、うち達は北部小学校の仮校舎で卒業するのです。 折角卒業するのに仮校舎では如何にも残念でなりません。そしてあんなにきれかった芝生も今はトラックでふみつぶされ沢山の出来合いの家でおまけに門は弾でどこかに飛んで仕終って居ります。そして四百人ばかり居た女学生が約三分の一になりました。
 此の頃は毎日毎日が楽しくてなりません。 それも学校で皆とさわいでる時ばかり、家にかえるとすぐおっ母ちゃんの事が思いだされて急に寂しくなって仕終います。
 今後は戦跡見物の模様をお話ししますね。 至るところ焼けつくして崩れ落ちたあとには灰色の巨大な柱のみが在りし日の面影を残して物寂しげに突立って見えます。そして焼けのあとの光景は何故か人の心をひきつけるのでした。在りし昔の全影を想像するにつけ、人々の心は一層寂寞として、さながら目前の荒れ果てた光影のようでした。激戦のあとを物語っている灰色の壁の上に悄然と故○○○○戦死の場所と墨色も鮮やかに記されているのを目撃したときに、 壮烈な戦地の有様を思い浮かべるともう胸がつまって仕終って、只黙礼のみするのでした。折から吹きつけて来る風さえも身に沁みて、一層寂寥となって仕終いました。これ等見学するにも肉親の身として、兄ちゃんの事を考えると何故か自分一人とり残された様な寂しさにおそわれるのでした。 この人々と同じ様に想像するのはヤボな事と思うのですけど戦争はまだ拡大するかも知れないと思うと、身をちぎられる様な気がいたします。あら御本尊の兄ちゃんに、こんな話するのはちったヤボすぎるのね でも運命のもとには従わねばならないのですものね。只々運命にまかせるのみです!  そして、激戦の場所は勿論 江岸(黄浦江)の軍工路あたりは、すべて満足な家は一つもありません。大きな建物には必ず大きな大砲が命中しています。そして損害を多くこうむっているのは皆、支那人の経営の建物ばかりですから、大層××じゃないですか、××と言えば、上海市中も、今迄支那人経営の、色々な建物を日本がすまして拝借しているから、実際××しくなるね。 軍需部が第一番にああ拝借じゃないね、占領している。人間の悪く言えばカッパラッテいるのだね。

ね 兄ちゃん、退役したら上海に来ると言っているの本当?

今からは、日本人のみの上海になるからきっといいだろうよ。上海街には、至るところ、日本の兵隊さんで一杯です。国際都市も何でも何処を吹いていかってな調子ですのよ。断然日本で占めていますのよ。そして兵隊さん達のための店が沢山できて来ました。復活して来た上海は全部日本式です。勿論日本人で復活しているのですから。これからの上海を想像すると日本の国力の威大なのにつくづく感服いたすに他ありません。日本に生まれた事をしみじみと感謝せずには外国で生活することはできません。 

では余り長くなります故これにて、ペンを置きます。
 呉々も御身御大切に軍務に励まれることを祈ります。 

二月六日夜九時十五分(日本時間)
兄上様 はる子より

 

兄ちゃんすみませんが和子さん方の住所を教えて下さいませ、名前は四郎でしたね。

山崎四郎様ね 至急お願いいたします つい忘れてしまって上海に来てから一度も出してないじゃありませんか でなるだけ早く願います。

園木文子さんに、御手紙だそうか、どうしょうかと迷って居ります。神宮駅前でいいですね 

久留米に一度でいいから行って見たかった。それが一番残念でなりません。うち若しかしたら、卒業して大使館武官室に務めるかもしれません。務める様になったら慰問金も送りましょうね。兄ちゃん相当ひもじくしているやろって そればかり心配しております酒保で何か買えたらいいけどね、うちその事ばかり心配いたしております。近かったら面会に行って何でも持 っていっ て食べさせられるけど、なんて途方もないない事を考えています。お金は兄さんの軍事郵便で送るといいやろ、で四月すぎたら、うちも兄ちゃんに送れる様になれるかもしれません。
うちにだすときは兄さんとこの軍需部にだしてね
 じゃまた さよなら   

上海日本高等女学校答案用紙に記す    
兄さん・・・ハルの一番上の姉の夫でハルの養父となる。ハルと姉とは23歳年違いだった 

 


 

上海からの手紙 あんちゃんへ⑦
 第2章 戦跡見学と傷病者慰問

  
 兄ちゃん 元気ですか 此の頃はきっと猛訓練で御忙しい事でしょう。うちは日曜たんびに戦跡見学いくし、 学校からは学校からでいきますので毎日がとても楽しいです。上海に於ける激戦地は全んど藻見てきま し た。大場鎮も江湾鎮 北停車場 鉄道官理局 真茹軍路 呉松 ・・・ 敵前上陸をやった鉄道桟橋附近商務院書館を見に行ったこの前の日曜でした。その時陸戦隊のすぐ裏に陸軍の小砲兵がいました。支那人の家を占領して。 で、とても兄ちゃんの事が思い出して兄ちゃんがここに居ればいいがと思ったりしました。きっともう少ししたら交替する兵隊さん方の様子、兄ちゃんも替って上海に来るかもしれませんね。

 

此の頃沢山の鉄道員を見受けます。 大きな兄ちゃんが来てたら、どんなに嬉しい事だろうと考えます 来てたら兄ちゃんも雇員の服きて、ああして街を歩いているのにと思うと、なんだかさびしくなります。あたしがあげる御手紙、ちっともかまわないでしょう? 名前も林でやるから、若し都合が悪かっ たら兄さんに出して貰うから、そう言って頂戴い。写真を送りたいけど送ったらいけないでしょうね、兄ちゃんの様に うちも肥えています。和子さん方へはだしました であんちゃんも早くだしなさいそれから兄さんが上の人に出してくださったの 着いたら御礼の葉書をだしになったらいいのに兄さん心配しいらっしゃるよ。
うちももうすぐ卒業、早く卒業したい!定期試験は十五日より十九日迄 卒業日は二十七日ずいぶん遅いでしょう 早くサラリーマンになって兄ちゃんを喜ばしてやりたいなあ でも博多に居るおっかちゃんの事思えば何も彼も寂しくなってきます。そして博多にいきたい様な気がします でもそれも出来ない仕方がないわね運命と何も彼もあきらめなければならないわね 
 余り急いで書きましたので字が少しみだれています 御免なさい
 御元気に御務になって下さい かしこ
 兄上様 妹より  

大きなあんちゃん・・・一番上の兄 富士松。ハルが上海に来た昭和13年に妻が若くして病死したため,長女の恵美子は昭和16年11歳のとき上海の長姉(姉さん)の養女となる。 次女の栄子は祖母(ばばちゃん)に預けられた


上海からの手紙 あんちゃんへ⑧ 
 第2章 戦跡見学と傷病者慰問

 

兄さん 近頃どうしたのですか ちっとも御手紙来ないじゃないの 皆で大変心配しているのに でも御元気で務めている事は確かだろうと思っています。
今日また戦跡地に行って 写真撮って来たの 此頃はあたしは本当に幸福です。その写真が現像焼付して来るのが待ち遠しくてならないです。どんなにうつっているかしらと思うと。 色々沢山うつしたのが。 よかったら兄さんにも送るね。 でも兄ちゃんに送るのは女の人のいけないのでしょう。勿論妹でもいけないわね でうちの兄さんのうつっているものは皆送りましょうね どうぞそれまで待って下さいね
それから姉さんがもう少ししたら帰るかもわかりません。うちも帰りたいけど卒業してすぐ働かきゃいけないの。 駐在武官にお願いしたところが四月一日から出て来れるでしょうねって。 そいで仕方がないからハイって言ってしまったのでどうしても帰る事が出来ないの。 絶好のチャンスをのがすなんて実に惜しくて仕様がないでのです。 でも仕方ありません。
ココまで書いていたところ ひっこり兄さんが来ま したのでまたもう一つのに書き直します。 今は誰一人として話し相手もいない私。 やはり懐かしいのは、そして肉親の兄として慕わしいのはまさちゃんより他にありません。そいで嬉しいにつけ悲しいにつけすぐ筆を運ぶのは兄ちゃんのとこにです。
御免なさい変な事書いてつい変な気になってしまって。うちどうしてか生きていて どうするのかさっぱりわかりません。生きる喜びなんか一つもありやしない様な気がするんです。愈々明日が卒業式ね夜が明けたから卒業式。 乙女の最も心象深く残る女学生時代もこれでさらば制服の少女よさらばってさ また母校よさらば 我が胸は希望へと・・・ってな事皆言うのよ そりゃそうだけど うちやはり早く卒業したい。 卒業して働きたい。 希望も憧憬も何にもない私ただ一途に職業へと束縛されたキュウクツな生活。  箱入り娘である私自由で放縦な生活へと進む友達が羨ましいわ。でも間違は絶対起こさない故 箱入り娘がやはりいいんでしょう。朗らかすぎる私  何時も朗らかに青春期を過ごそうとしています。

二十六日 午前八時十分
お返事はいりません 書いてはいけません 

 


上海からの手紙 あんちゃんへ⑨ 
 第2章 戦跡見学と傷病者慰問  

 

兄さん 御手紙有難う御座いました。うち余んまり御手紙呉れないので あたしがだすの悪いのだろうと思って多少心配して居ました。 でも特にそう差しつかえないとの事だったので大喜びでこれからはずっと一週間に一遍は必ず私の近況を報告しようと思いますけどいけませんかしら 都合悪い様だったら大至急御報せ下さいね これね私の写真機で第一回に撮りましたの印度人の巡杳うつしたのはあたいなんです これね わたしのアルバムよりとりましたの これでいいかしら また市政府 商学院 商務院書館等行ってうつしたのを皆送りましょうね 
うち 兄ちゃんが上海に来て呉れたら どんなにうれしいでしょう うちそればかり思っています   兄ちゃんが上海に来て呉れるととしたら でもそれもできかできないかわかりませんものね  兄ち ゃんの御返事どの手紙の御返事かわかりません 何日の御返事って書いて下さいね余り沢山 だすのでついこんがらがっちゃって ホホ-----

 兄ちゃん明日が終業式明後日が卒業式なのよ 
 アノネ上海には沢山の兵隊さんが一杯なんです そいで黄色襟マークを見るたびに兄ちゃん を思い出すのです。兄ちゃんが上海に来たら ずっと激戦地を見学するといいのに うちは大 方見学もしました。これであたいの本望をとげたわけなんですね でも兄ちゃん達に見せてみ たい様な気がします。こわれてしまった家を 敵のトーチカ サンゴウ 戦車隊 色々戦争に関 するものすべて見られるのですから

 葉書ずっと着いていますでしょうか 途中で止まってかまないけど あんなきたない字を近頃は   相当忙しくなったでしょう。新兵さん時代誰でも味わうくるしみ よく家で話します しっかり修養されんことを  あの諸岡さんとか 諸口とか何か名前忘れたけど返事が来てたわよ  その人四中隊なのね 別の所ね 兄ちゃんと一緒だったらよかったのに惜しかったわね でも そんないい人を知っていただけでも新兵さんにはよかったのね
 山崎さんから写真頂戴って でもあたし人に写真やるの大嫌いなんです そいで今持ち合わせ ていないってことわったよ まだたくさん書きたいのですが余り長くなるから
 御元気で働いて下さいませ。

三月二十五日午後十一時

かしこ 妹より 兄上様

昌代っていい名前ですね 何からとったんでしょう? 

昌代・・・3番目の兄末一の長女。昭和13年3月1日に生まれる     

 


上海からの手紙 あんちゃんへ⑩
第3章 上海から戦地のあんちゃんへ

  
兄さん 其の後御変わりもなく達者でいることでしょう

わたしも相変わらず元気で務めて居りますゆえ御安心下さい  
博多も皆達者だろうと思って居ります
もう後わずかでお正月が来ます
兄ちゃんは何処で年を向かえる事でしょう
それからいいニュース あたしが今度昇給して六拾円近くなった事です
でも母ちゃんには前どおりかやれません
それが一つ残念でなりません
でも病気の時余計送るから心配しない様に
それから上海はずいぶん暑いんですけど
戦地はさぞ寒い事でしょう
よくよく気をつけて身体をこわさない様に
まさちゃんいま何処にいるんだろう
元気でいて下さい
母さんが一生懸命で待っていますから
では今日はこれだけまたいずれ後便にて
 十二月二十二日
 兄上様  はる子   

 

篠崎重ちゃんは広東方面です(南支)

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ⑪  

 第3章 上海から戦地のあんちゃんへ

 

まさちゃん十二月二十三日附の航空便ありがとう。 一辺で十一通も着いたそうでほんとにあきらめて出したんですのに。今日十二月十一日附のを貰ったのでもう夢中になって今朝返事を書いたの そして出したんです。 始めはあたしびっくりしたんです。航空便だったので負傷でもしたかと思って。 その頃丁度士官の会議があったのでお接待していたのです。その時の嬉しさったらあたりかまわず嬉し涙がぽたぽた落ちてくるのでした。あんちゃんのスナップを見るため早速見に行ったのですけど去月の二十六日でしょう。
で新聞社にはないんです。困りぬいているんです。でもどうにかして見ます。折角出て いるんだもの。近所もずいぶん捜したのですけどありません。大変残念でなりません。
  一寸でもあんちゃんの恰好 を見てみたかったですもの。  
それから今日の様に、あんちゃんの自筆で表書きを書いて出して下さい。人の字ではあたしは少しも嬉しくない。ちっとも懐かしくない。あんちゃんだってそうでしょう? 

それから一子さまのお母さんほんとに私は嬉しくてならなかったです。そんなに迄して下さっていたとはしりませんでした。何故早く教えてくれなかったのです。早速返事出しときました。文ちゃんから返事じゃなかった。お手紙が来ますってあんちゃん言わせんねえ。いいねえフフ・・・じゃあたしもお礼の手紙折があったら出しましょう。では呉々もお身体に気を付けて。 漢口あたりに行けば随分物価が高いそうなマッチ一つだって十銭もとられるそうな。辛抱していて漢口で難儀しない様にね いる時は何時でも言ってね。あたし月給は六十円も貰ってるのですものちっとも肩身がせまくはない。堂々というのよ
 この写真送ります。
 あんちゃんにもこんな弟があったのよ見まちがえてはいけません。
 じゃお元気でお奮闘ください。 

 一月十日 さよなら
 まさちゃんへ はる子
 上海から戦地には航空便では行かないんですって残念です。 

 


上海からの手紙 あんちゃんへ⑫

 第3章 上海から戦地のあんちゃんへ   

 

まさちゃん 其の後御変わりはありませんか。うちも大変元気で働いて居ります。
また母さんからもしょっちゅう便りがまいりますゆえ何卒安心して下さい。   
また先月からは母さんに三十円送金なさったそうであたしもびっくりしました。どうしたんです。
さぞさぞ色々と辛抱なさったのでしょうね。もうこれからはそんな気づかいはすこしもしなくてよろしいから。自分で持っていて下さい。おっ母ちゃんには、あたしが毎月五円宛送金しているの。 で少しも心配はいらないから。皆くるしいのだし。
ましてあんちゃんは今日明日かしれぬ命を持っていて、うちも可哀想でなりません。年老いた母を只独りあうしておいてゆくのは、あたしだって心ぼそいの。でも仕方ありません。
戦死したあとでもいくらかでも自分で持って居なかったらやはりさびしいでしょう。
つかう所がなかったらつかわなくていいのよ。だから送らなくていいから持ってらっしゃい。呉々もおねがいいたしますね。   
それから色々あたしが武官室の人にたのんだりしてこのあたしの真心が神様にも通じたそうな。 慰問袋が上海で送れる様にして頂いたの。支那経由でなくて、日本経由なので少しは安心できるでしょう。ほんとにうちは飛び上がる程嬉しいのよ。すぐ送ってあげますからね。上海名物を買ってね。お友達と分けて食べてね ホ・・・・ まだ送りもいないうちに 
 では今日はこれくらいでペンを置きましょう。呉々も御身体に気をつけておすごし下さい。
 ああ今日ね朝日新聞が送って来たけど二十二日のだったのでだめだった。でも朝日のニュース映画で見たので安心したの。 でもう(あんちゃんの新聞記事は)送って貰わない事にしたの。
 お元気でお奮闘を祈りながら  さよなら
 一月三十一日
  

 


上海からの手紙 あんちゃんへ⑬
 第3章 上海から戦地のあんちゃんへ 


まさちゃん
此間の手紙でね、写真の事ね上海でどうしても捜し出せませんでしたので、 本社の方へ手紙出しときましたがいつか返事がくると思うの。その時はまさちゃんに送りましょうね。二つきたらおっ母ちゃんにも送りますね。 昨日うちのしゃしん入れてやりましたが、これ(手紙)が着く時はとどいているでしょうね。  笑わないで下さいよ。お友達の人には弟って言って下さい。そしたらほんとにしますよ。 上海で航空便の出し方がわからないのでだめね。これだって四、五ケ月してから届くでしょうね。(航空便は)内地だったらすぐあるんですけど。戦地の方にはわかりませんの。 今日はお仕事もぼっちりぼっちりあったので、御手紙を何処にも出した。恵美子にも出した。昨日ね、善ちゃんたち親子三人連の写真が送って来たの。加那子はね男の子みたいですのよ。 むつ子姉さんのおかしかった、素顔の方がよっぽどましに見えた。
 
この手紙が着いた頃は、漢口あたりに行っていますでしょう。或はもうずっと前線の方かしら。 おっ母ちゃん大変達者で居りますって。そしてね長崎の豊松さんの弟さんが入営したそうなの やはり四十六聯隊だそうな。糸島のおじさんなくなったって、どっちの方かしらない。  一年の間に、あんちゃんがびっくりする程何も彼も変わっているでしょう。 あたしなんか大分なれていますけど。あんちゃんは始めてなんでしょう。なんでも驚かない事、鉄砲の弾の様にね。あんちゃんたちもうすこしも驚かなくなったでしょう。それから甚だ言いにくいけど一子さんの家を忘れたの。何町だった。わかったら教えて下さいませ。  博多の母さんにも言ってやりましたからお礼にゆくでしょう。
 では呉々も御身に気を付けてお奮闘下さい
  一月十三日  さよなら
 まさちゃんへ 妹より  

※加那子・・・2番目の兄 善一の長女 昭和13年の出生。 ※むつ子姉さん・・・善一の妻

 


上海からの手紙 あんちゃんへ⑭
第3章 上海から戦地のあんちゃんへ   

 

まさちゃん 如何していますか。このごろすこしもお返事が来ないのでほんとに大変心配していますの。博多の末ちゃんも心配しています。そして末ちゃん吉野町のたしか六百六番地だったと思います。そしておっ母ちゃんは大方吉野町の方にいないそうです。だから手紙は吉塚の方がいいでしょう。 来年の正月は一度どうしても帰りたいと思っています。今年中は到底かえれないでしょう。それから此頃は悪い夢ばかり見ます。ほんとにまさちゃん どうかしていないんでしょうねえ。

毎晩みたいに見ますので うちもう心配でなりません。昨日映画見に行って中支方面のニュース見たら一層そわそわして仕方がありません。でもでもあんちゃんの事ゆえ きっときっと大元気だろうと存じます。 上海もだだんだん暖かくなります。今日なんか雨上がりながら気持ちのいいお日和ですの。 此の頃半月ばかりは忙しくて目がまわる程でしたけど、たったいまやっと(仕事が)すんだのでうちもほっとしたとこなの。 それからあんちゃんにお守護送ったの着いたでしょうねえ。いろいろ考えていたのでどうか判して読んでください。
 くれぐれもお身体に気をつけて
 じゃさよなら
 三月二十七日 
 はる子
 兄上様

 

今高杉早苗とおむこさんの市川段四郎が上海に来ていますの  入場料八円五十銭 目がまわるわ

 


 上海からの手紙 あんちゃんへ
第3章 上海から戦地のあんちゃんへ
   

謹啓

 

突然乍ら一筆申上候
山深き江北戦線にも初夏の訪れに田植する農夫の姿も所々に見受られ候
さて不肖小生は 林政一君の分隊長として御奉公致居者にて候
去る三月下旬武昌より九江へ前進中、林君は揚新附近にて病に附き入院致すの罷む無きに至り候 
之より一ヶ月余、南昌攻略を終えて我々は星子港に参り候同地にて久し振りにて郵便物の受領を成し候所、貴女様より森君宛御送付成されし小包手紙等皆他の入院者の郵便物と共に次の集結地應域迄携行致候
      
然るに我々は漢水東北地区の残敵掃蕩の命を受け出動致す事に相成り候為に入院者の小包等も携行不能と相成り遂に命に依り小包を開封し食品のみを分隊全員に分配致候
実は直に御通知申上るべき所戦斗行動中なれば其れも成らず戦闘終りし今日に相成候
  

右の次第なれば何卒悪からず御了解被下度願上候
尚手紙は大切に保管致居候故御安心被下度候
退院帰隊者の話を聞けば森君は内地還送に成りしと?未だ確報を得ず心配致居候
  
先ずは悪筆乍右御通知迄
敬具

 

五月二十四日   於 ?安
砲兵伍長  堤 襄 
  宮崎はる子様      
あんちゃんの分隊長からハルへ宛てた手紙

 


上海からの手紙 あんちゃんへ⑯
第3章 上海から戦地のあんちゃんへ  

 

林君 近頃の暑さはどうですか中支の応山は相当なる炎熱です 
其の後君の病気はいかがで有りますか 
先月分より君の妹なる者か知らないが大分手紙を受け取って居りますので 君の所に返送してやりますが此の一通は手紙がやぶれていたので小生が入れ替えてやりました 

決して中を拝見したのでなく只入添えただけです御承知相成度し
最後に君の病気全快する様御祈り致します 

田代末一

林君  

この手紙は戦地の上官から  内地送還になったあんちゃんへ送ったもの

 


上海からの手紙 あんちゃんへ⑰
 第3章 上海から戦地のあんちゃんへ   

 

陽春の候 御健勝の段奉賀候 陳者義弟林政一出征後 不幸病魔に侵され内地送還兵役免除と相成り候に就いては 格別の御配慮を辱うし此の度はまた御多忙中遠路御見舞下され過分の御見舞料迄御恵与に預かり 御厚志の段肝に銘じて有難く永久忘却不士候
軍人として第一線に立ち敵弾に斃れるは男子の本分とするところに候へ共 病気の為軍人の本分を全すること能わず兵役免除となり 銃後の皆々様の御期待に副わざりしはかえすかえすも口惜しく慙愧に堪えざる次第に御座候
斯くなる上は本人も専心養生一日も早く全快し第二国民として自己の職務に精進することと信じ居り候えば 今後共一層御指導御鞭撻の程偏に奉懇願候
先ずは書面を以って右御礼迄如斯御座候
 三月九日  敬具                      

宮崎  勝  

 宮崎 勝・・・ハルの養父(上海の兄さん)
 あんちゃんの除隊について上海の兄さんが出した書簡 

 


上海からの手紙 あんちゃんへ⑱

第4章 病床から療養中のあんちゃんへ

  
 まさちゃん すこしはよくなりましたか。一日中病院のベットの上もほんとにさびしいものです。
 あんちゃんの病気をそっくりこっちで頂戴して本当に困って仕舞っ ています。今上海の海軍閘北病舎に入院しています。
 肋膜そうなまだ始めだからすぐよくなるってです。
 昨日から入院しています。とてもさびしいものよ。一日中床の中散歩も出来ないのよ。散歩したら頬がほてるので駄目だって。寝ているのも苦しいね。頭が痛くてかたがこるしずいぶん困るよ。
とても軽いんだから心配しないで頂戴 

この手紙いつあんちゃんとこに着くかしらわからない
ではあんちゃんお身体を大事に
うちもあと一週間もすれば退院できるだろう。
兄弟とも同じ病気って変ね
 五月七日
 さよなら
 政一兄ちゃん  はる子   
 

 


上海からの手紙 あんちゃんへ⑲
第4章 病床から療養中のあんちゃんへ 

    

大きなあんちゃんへ
政ちゃんが日本に帰ってゆきいろいろ御心配でございましょう。あんなに肥えて写ったのを上海に送って来たので大変喜んでいました。でも末ちゃんのお便りに依りますとまだ少し悪いとの事わたくしも心配しております。
      
うちもまさちゃんと同じ病気で今は海軍病院に入院しております。大変退屈で仕方がありません。
まさちゃんからすっかり其の儘病気を頂戴してこんな事は ございません。でもまだ大した事はありませんの。一週間ばかりおればいいだろうとおもいます。 もう熱もすっかりとれたしすこしも心配する事はありません。でも余り心配してはいけませんのでお母ちゃんには言わずにおいて下さいませ。小さい時からあまり病気ってした事がないので  一日中ベットの中に居ますのは退屈でさびしくてなりません。姉さんか毎日来てくれますけど姉さんではお話ができませんから フフ・・・         

 

とてもさびしくてなりません。いつもいつも恵美子の事ばかり考えて思っています。
今頃どうしているのかしらとばかり考えています。恵美子が上海に居たら毎日来てくれるのにと思っりします。丈夫で学校に行っていますでしょうね。時々は姉ちゃんにお手紙書かせて下さい。
 只、恵美子が一番可愛くてなりません。
      
もう四五日もおれば退院するでしょう。
 では姉さん
によろしくお伝え下さい。
 母を呉々もおねがいいたします。 

五月七日          
はる子
 兄上様   

※ 恵美子・・・ハルの1番上の兄富士松の長女。16年に上海に長姉に引き取られハルの妹となる。
※姉さん・・・富士松の妻。この年の11月に病死        

                                


 上海からの手紙 あんちゃんへ⑳
  
第4章 病床から療養中のあんちゃんへ 

 

あんちゃん どう?お病気の方は ずいぶん悪いそうで心配してんのよ。
あのね うちもう大分よくなりました。始めは手紙書くのもきつくってだるくって汗ばかり出ていました。けど もう すっかり快くなりました。気持ちいい時は、沢山手紙書きます。あんちゃんみたいに沢山人がいらっしゃるのならいいんだけど、うちはたった一人でしょう。そりゃもう さびしくってさびしくってなりません。退屈でね、どうにも仕方がないの。
手紙類一度もベッドに来ません。善ちゃんのずっと前に見ただけですの。そしてまさちゃんが(容態が)悪いって言ってありますので大変心配しています。
うちはもうすぐ退室だろうと思います。御飯がすこしも食べれませんので困っています。
 一日交代みたいに皆来てくれますのでとても嬉しいんですけど後がさびしくってなりません。
 雑誌も もう 読みあいて散歩も退屈でね。早く退室しなきゃたまらんね。
 あんちゃん達は、うち達よりもよっぽどさびしいでしょうね。散歩もできないんなら。うちはゼイタクすぎるわ。

上海の閘北(ポケット地帯)でとても空気がいいの。陸戦隊のすぐ裏のとこにあるの。海軍の兵隊さん達ばかり
ではお元気で早く快くなって沢山お手紙下さい。
あまり長くなるのでこれでやめます。
 五月十二日 さよなら
 あんちゃんへ

 


上海からの手紙 あんちゃんへ㉑
第4章 病床から療養中のあんちゃんへ  

 

あんちゃん其の後病気はどんなですか
(同僚の)松林さんが手紙が来ていたと言っていました。よく忘れずにおおきに。やっぱりあんちゃんやと思って嬉しかった。 うちも大分よくなってもう退室するかもしれません。すっかり快くなっているのだろうけど、まだ少し胸の所が痛いから退室してもすぐに務める事もできないだろう。うちの代りにタイピストが来ていたようだけど、その人がよく出来ないそうで事務所の方ではやはりうちの退室するのを待っているそうな。でも上海の兄さんは、若い娘なので危ないからゆっくり養生しなきゃいけないって・・・ 和子さんの二の舞やられちゃ大変ね。此の際勤めるのはやめろと言うんだけど、うちとしちゃ折角ここ迄習い覚えた仕事だけに、やめたくないの。
   
うちの姉さん、まさちゃんが好きなうまい物食べていないって大変心配しているの。卵の油※が非常にいいそうな。だけど食べれるか食べれたら拾円程するそうな。大きなあんちゃんに買って貰ったらいいって。大きなあんちゃんに上海の兄さん今月二百円送ってやらしたの。それなのにうちがこうしてまた入院でしょう。余計お金がうち達(兄弟)ばかりに入るので気の毒でね。 お母ちゃんにもお金送れなかったの。 でも達者になればおかあちゃんにも送れるんだから今月だけ我慢して貰うね。

 

ではもう汗びっしょりだからこれでごめんね。また詳しい事は後で。
くれぐれも御身体に気を付けて、早く快くなって下さい。
ではお元気で  さよなら
 五月十四日 
 兄上様  はる子  

 卵の油は、卵の黄身を入り上げて抽出した油です。 家庭でも手作りできるため、古くから利用されてきた用途の広い健康食品 

 


 上海からの手紙 あんちゃんへ㉒
第4章 病床から療養中のあんちゃんへ      

 

あんちゃん 御手紙おうきん 昨夕武官室から持って来て貰った。
あんちゃんが病気がいいって聞いたもんだから、うちももう嬉しくなった。善ちゃんがそんなに手紙でやっとらした。園木さんがいらっしゃったそうで。それに軍医を知っていらっしゃたとか、本当によかったね。お母ちゃんも達者とかうちも安心したよ。それから船の上でうつしたしゃしんはもうとっくあんちゃんが小倉に居る時送ったよ。 大きなあんちゃんに持って行ってくれってで今度面会に来た時聞いてごらんなさい。うちも博多に言ってやっとこう。

うちね十六日の日に退室して今では家にねています。
若しかしたら今の所よすかもしれない。皆がやめなきゃ駄目だって。 若し日本に帰れるんだったらやめてもいいけど。帰れないんだったらお役所もやめる。 こんな病気になるし何にも希わなくなる。だから今考えているの。どうした方がいいか。大きなあんちゃんがお金って言って来なかったら、うち日本に帰って歯を入れられたかもしれないけどそれもできないしね。 そうそうお金入り事ばかりしても、ここの兄さんにはすまないし困っています。 でもこのことは大きな兄ちゃんには絶対に言わないで下さい。

上海に居ても養生すれば快くなるんだから。 再発するのが一番こわいので今度はよく養生しなきゃいけないと思っています。 一ヶ月やそこらで快くなる様な病気じゃないから 本当にヤッカイです。 あんちゃんが上海に来た頃から妙に胸の所がチクチクしていたの。 でもかまわずしていたら背中の所がとっても痛くなって、とうとう見て貰ったの。 でもほんの始めだったので

よかったです。もう今ではほんの少しチクチクするだけで何ともありません。熱もすっかり下がったし、少しも心配するような事はありません。初めはねバスなんか乗っても熱が七度六七分になったりしていたけど早くよくなって良かったです。此の際すっかりなおそうと思っています。

 うちの姉さんあんちゃんの病気が快くなるやろうかってたいへん心配して、まるで自分が病気しているみたいです。そいでくれぐれもお身体に気をつけて早く快くなって下さい。

 余り長くなるからっこらへんでやめます。
お友達の方によろしく言って下さい。あたしのしゃしん見て知っていらっしゃるんでしょう。

フフ・・・ 

五月十九日 さよなら
あんちゃんへ はる子

 


上海からの手紙 あんちゃんへ㉓

 第4章 病床から療養中のあんちゃんへ 

 

あんちゃん
お手紙おうきん
あんちゃんもようなってよかったな
うちも大分よかとばい
しゃしんを送るけんな
今日ね うち きつかけん またね
肋膜はよかと もうね 胸の所のちびっと痛かだけ
吐き気は肋膜特有って 道理でうちねニンシンみたい むかむかしていたもん
もう今はよかと綺麗にようなったけん
来月から務めに行こうと思うとる
二十六日 晩
あんちゃんも元気で養生して下さい
今日はなしじゃいろ きつうして どうしても手紙書っきらんとばい
もうねる あした書くけん
  


上海からの手紙 あんちゃんへ㉔
第4章 病床から
療養中のあんちゃんへ 


 あんちゃんお手紙ありがとう。度々お便りいただいて一本も返事上げずにすみません。
気がゆるんだせいか、どうしても便り一つ書く気がせず今日迄失礼いたしました。あんちゃん悪くおもわないで下さい。
もうすっかりよくなって今日から出ています。やはりお役所はおもしろいです。安心して下さい。
熱はなんともないんですけど七度二三度ばかりあるの。でも自分ではなんともないの。
   
今から武官室から士官室に変わったの。で今からはそんなに書いてやって下さい。一ヶ月も休んでいましたので大変お役所では忙しくうちで書いています。(あんちゃんも)早く快くなって元気な姿を見せて下さい。  今日武官室の人よりしゃしんとっていただいたから、出来たら焼増しておくりましょう。
ではくれぐれもお大事にね。 

六月一日  さいなら
あんちゃんへ はる子  

 


海からの手紙 あんちゃんへ ㉕
第4章 病床から
療養中のあんちゃんへ

 


まさちゃん お元気ですか ずいぶん長くお手紙出さずにほんとにごめんなさい。
もう具合はいいですか。
お母ちゃんこらすですか。
うちもお母ちゃんとこ行きたい。
あのね あんちゃん うちね今月十円上がって七十二円になったのよ。もうすぐ雇員になるかもしれない。その時は本俸六十五円ばかりだけど増俸とも九十七円になるかもしれない。うちもやっと本望を遂げたわけなの。でもはっきりしたことはわからないの。今日タイプで上申したんだから。

うれしくってうれしくってなりません。
ではお元気で
六月三日 さよなら
まさちゃんへ  
    
これ昨日うつしたのです。
他のは少しやせていますから あんちゃんが心配するから 一枚だけ送ります

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㉖
第4章 病床から
療養中のあんちゃんへ 

 


あんちゃんどうですか お変わりありませんか 
マラリアの方はずんぶんと心配しています 
あんちゃんの分隊長とかから うちに御手紙が来ています 慰問袋あけたとか あんちゃんがいなくっていけなかったでしょうね 御手紙やるつもりなんだけどまだやってないの あたしも もうすっかり快くなったっていうもの、やはりこうして手紙買い手も肩がこるのタイプ打つと肩の所やら胸の下の所がチクリチクリやり出します。いけないらしいけどもう熱も仕事して七度位だからいいでしょう
やめていいけどやめるとますますお母ちゃんで乳がのみたくなるので やはり働くわ

でないとどうしても博多の事思い出して独りさびしくなるから 働くと忙しいからね そんな事は少しも考えないから 日本に帰るんだったら 今の仕事なんか 少しも未練はないんだけど
ではこのごろの写真をおくります
お元気で何にも考えないで病気をなおして下さい 

六月八日                                       
はる子
あんちゃんへ   

 


上海からの手紙 あんちゃんへ㉗
 第4章 病床から
療養中のあんちゃんへ 

 

あんちゃん お手紙に写真ありがとう
うちもそのうち素晴らしくいいのを送りましょう。お返事も上げず本当にすみませんでした。丁度熱出して休んでい
 たものだから。やっぱりお仕事すると余りよくないらしいのです。肩がこって胸が痛いんです。上海は空気が悪いので余りよくならないのだろうと思っております。少しもはかばかしくありません。お薬も美味しいものも飲めるだけ
食べれるだけたべているのだけど、余りよくありません。やはり今の仕事をしている間は駄目でしょう。家に居ると
どうもないんですもの。

本当に弱っています。

であんちゃんも うち 上海に呼ぶのはこわくなって来ます。  自分ながら癪に障ってなりません。すっかり快くなって、どんな事でも出来る様になればいいんですけど。でもどうしても日本に仕事がなかったら上海に来ていいけど、上海は空気が悪いから困っています。

うちみたいにピンピンしていてさえ肋膜になるんだもん。なかなか働くとなると快くなせないからね。今日は元気で出勤しているけどやはり胸が痛いです。あたしのは務めている限りなおらないのよ。そいで(あんちゃんも)どうもない熱もない痛くもないと思ってもしっかり養生して下さい。お医者さんがすっかり快いって言ってもやはりあたしのは快くなっていないんですからね。よくよく考えて下さい。上海に来る事は。自分でこんな風になかったら、うち一番に呼んでいるかもしれないの。でも自分がそんなにあるもんだから。この病気はよくしっているの。

それからロザシはうち持っているからいいのよ。そんな肩のこる仕事はなるだけしないで下さい。
あたし針でさえ持たないし、めったに手紙も書かないの。肩がこって後のたたりが苦しいから。
ではくれぐれもおねがい、そんな事しないで下さい。
お元気で
六月十五日 はる子
あんちゃんへ                                     

ロザシ・・・兵隊の趣味として、小布に刺繍したもので、布製の財布や煙草入れ、キセル入れなどを作ってい

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㉘
第4章 病床から
療養中のあんちゃんへ     

 

あんちゃん お手紙ありがとう
元気なしゃしんみてほんとに安心しました。あたしも今日は元気です。昨日は七度五分でとてもきつかったけど。熱は七度より少しも下がらないの。困っています。此の前の手紙着きました?
仕事すれば胸の所が相変わらず痛いです。でも大した事はないから心配しないで下さい。

お母ちゃん来ますか。
あんちゃん何時除隊になるんですか。そればかり心配しています。除隊になってもすぐには働けないんでしょう。あたしの給料の半分でいい、送ってやれたら。何時も望めない事考えています。
自分ながらなさけなくなります。
ではまた今日はこれで失礼します。
うちも引のばしのしゃしんおくります。
お元気でおすごし下さい。
六月二十二日 さよなら
あんちゃんへ

 


海からの手紙 あんちゃんへ ㉙

第4章 病床から療養中のあんちゃんへ  

 

あんちゃん お手紙ありがとう。しゃしんは送ったけどね。沢山入れておいたのよ。除隊になるんですって、いいじゃないの。手でも足でもなくなって除隊よりまし。いいじゃないかしら。
ねえあんちゃん 悲観せずすっかり快くなるまで養生して下さい。軍医様がやさしくって何よりです。すぐお礼の手紙出します。あたしもとても親切な軍医だったのよ。それで早く快くなっみたいです。熱はあたしの快くなっていないようです。少しあるんだもの。でもいいのよ。どうもないから。肩のこりも大?も快くなったのよ。こうして手紙書いてもどうもないんですもの。お元気で養生して下さい。また出します。今日はとても暑いので少しも書けない。内地もこんなに暑いんでしょうか。 

六月二十四日  さよなら
まさちゃんへ
マラリヤはね ヨモギをせんじて飲めばいいって陸戦隊の軍医が言っていらっしゃいました
。 

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㉚

第4章 病床から療養中のあんちゃんへ

 

御手紙もロザシのさいふもおおきに。嬉しかった。もう一つ持っていたあのさいふ、病気前におとしたので困っていた所でした。でももうおとさないよ。うちもうわすれんぼうだから、 しょ っちゅうおとして困っているの。
それからうちもとても元気になり胸のところも大していたまない様になってきたから、あんちゃんも安心して下さい。 軍医さんにお手紙上げるの,兄さんには話しているんだけど、此頃忙し くて夜も警戒ばかりなので書く暇がないのかもしれんからまだ出していないでしょう。うちにや、とうの昔に出したって言わすとやけん フフ・・・今日また言っとく、うちでよかったらすぐ出すん だけど、うちはいかんやろうから。熊井さんには出しといた。手紙やったでしょう。 名前は猛と か、あんちゃんも出しなさいね。大変心配していらっしゃるんでしょうから。堤さんにはもう前に出しています。手紙類は転送できたらお願いしますって。そしてできなかったら焼き捨てて下さいって、書いてやったよ。

 

あんちゃんは何時頃除隊するかわかるの。すっかり身体がよかったら呼びたいけど、あのねうちの近所の小母さんの弟さんが来ているの。でも仕事がなくて、自分で食べて五十円だってうちよりもずっとずっと少ないでしょう。うち今は武官室で食べて七十二円です。本雇で六十五円になれば百円近くなるけど、軍需部では四十位の男の人が本俸七十円で入っています。
そいで上海に来ても百円もお金はとれないから、その積もりで考えて下さい。また病気の都合もあるからすっかり快くならないと駄目たいね。日本に居ってもちょっぴりしかお金貰わないので考えなきゃいけないね。
お母ちゃんどうしとらすかしら。
あんちゃんお小遣い持っていますか。
うちね 夏江姉さん
の遺身とかの指輪を一緒におくってもらいたかったけど。あんちゃんがだまってロザシのさいふおくったので あれ 送り賃 いくらとったかしら。あんちゃんのお小遣いがのうなるやろうと思って心配しています。なかったらすぐおくります。姉さんがすこしおくってくれたらいいんだけどなあ

上海はとてもとても暑い。じいっとしていても汗がたらたらとにじみ出て仕方がない。仕事するのも命態けみたいです。涼しい風が吹いてくれると生きあがるんだけど。たまらない。くびに汗がびっしょりです。
ではこれで送っていただいた看護婦さんによろしくお伝え下さい。 

七月七日  ではさよなら
あんちゃんへ はる子

 

お母ちゃんに五円おくった。おとっちゃんの線香代にね。お墓にまいって、お掃除そて貰うように。おとっちゃんの喜ぶ顔が目に浮かぶ。急いで書いたので判読して下さい。 

   ロザシ・・・兵隊の趣味として、小布に刺繍したもので、布製の財布や煙草入れ、キセル入れなどを作っていた
   夏江姉さん・・・大きなあんちゃんの妻 ,昭和13年に死去

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㉛

第4章 病床から療養中のあんちゃんへ

御元気ですか
上海も皆元気旺盛ですから安心して下さい。其の後身体の方も少しはいいですか。佐賀も暑いでしょうね。上海も暑い、今が梅雨の様です。毎日毎日雨ばかりでこまっています。今日はお天気もたいへんよくなりました。
おっ母ちゃんあんちゃんとこに来ますか。先月五円送ったんだけどなんとも言ってきていません達者でいるんでしょうか。うんともすんとも言って来ないので うちも心配しています。此の頃は元気だろうと思うんですけど時々思い出すようにうづきます。このごろぷっつり手紙をやらないのでどうかしているんじゃないかしらと心配しています。便りのない時が一番元気でしょうね。

  
吉塚の新しい姉さん
いい人でしょうか。七月頃満州に行くと言っていた大きな兄ちゃん どうしているのでしょうか。ちっとも便りがないので困っています。お盆に兄さんが五円送らしたけどそのお礼も来ていない様です。何時もながらの事ながら心配ばかりです。

このごろ末ちゃんたち どうしているのやら手紙一枚もくれないし、うちも出さない、昌代も大きくなっていることやろうねえ。
  
除隊になればどうしょうね。今 うちその事で一杯です。きつい仕事も出来ないのだし、ほんとにね もうすこし養生してほしい。除隊になってもすぐ働けないからね。うちが出来るんやったらね 早く病気の方からなおして下さい。
ではお元気でね 乱筆にてごめんね
七月二十五日  さよなら 

あんちゃんへ はる子 

吉塚の新しい姉さん ・・・大きな兄ちゃんの妻(恵美子栄子の母親)は13年に病死、翌14年に再婚し英子を出生


上海からの手紙 あんちゃんへ ㉜
第4章 病床から
療養中のあんちゃんへ   


あんちゃん 御手紙ありがとう
お盆に行ったってね 皆元気との事何よりでした。あのしゃしんありがとう。うちに帰ったみたいでした。とても懐かしかったの。お母ちゃんも相変わらずだし栄子も相変わらず泣いていますね。
あたしも少しばかり写真おくります。九月頃除隊ってね。よかったね。すっかり快くなる迄病院に居なきゃいけないよ。出ればどうしても無理する人だから。
そしてあんちゃん五円ついたってね。よかったね。涙が出る程うちもうれしかった。あんちゃんがそんなに困っているのかと思えば。 でもうちの力ではどうする事も出来ないのがとてもくるしいです。うちこのごろ歯を入れたよ。とてもよくなったのよ。それからあんちゃんがおっ母ちゃんとこに帰ったら、姉さんが今迄五円送っていたのを十円宛送ってやるって言ったので少しでもよくなるでしょう。十円位すぐなくなるでしょうけど。うちにはどうにもなりません。何故こんなとこに(上海に)
来たっかさびしい時があります。でも仕方がないね。うちに居ればなお苦しかったんだからね。
ではお元気でお暮らし下さい。このごろ忙しいもんだからどこにも無沙汰しています。はま姉さん
なんとか言っていまし

たでしょう。姉さんにも一本も手紙やっていないんだから。また後でゆっくり書きます。
小遣いが足らんときはおっ母ちゃんに言って産婆さんから貰いなさい。産婆さんとこは福岡市湯洲町三丁目 大坪スエ
お母ちゃんに言わなくて手紙出しなさいね。沢山あるだろうと思います。

皆あんちゃんがなおして置いてくれたらうちも安心です。
うちがこうして送ったのをお母ちゃん達がつかわなかったら、なんにもならないものね。
じゃまた書くね                                                                           
さよなら 
はる子
急いで乱筆にておゆるし下さい 

はま姉さん・・・父孫一の弟伊作の子(ハルの従姉)

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㉝
第4章 病床から
療養中のあんちゃんへ  

 

お手紙おうきん
此の頃 ずっと便りがないのでどうしたんかと思った。
でもよかったね すっかりよくなって九月頃だってね 博多に帰るのは 三ヶ月ばかりで快くなるってね。いいさ、誰でも世話してくれるよ、心配しなくていいよ。おっ母ちゃんも居るんだし、すっかり快くなるまで養生しなきゃ駄目ね。お小遣いないんだろうと思ってとても心配していたの。でも思う様にならず、とうとう今日になったの 今日五円おくった。
そいですぐ兄さんにお礼の手紙やってね。うちね今度歯を入れるの。百五十円掛かるって。そいで大分お金がいるし、お薬も沢山飲んでいるものだから、思う様に姉さん達に言う事ができなかったの。おとっちゃんのお線香代って うちのお金で五円おくったし、姉さんのとうろう代にまた五円おくったので、あんちゃんからも兄さんにお礼言っといてね。
うちの俸給全部自分で使えたらって、そればかし思っています。でもそれも出来ないので、思う様に言えないので癪に障るけど仕方がないね。また来月いくらかおくろうね。 お小遣不自由するのばかり片身のせまいものはないんだものね。 
余り水泳なんかしたらいかんでしょう。あんちゃん達の身体は用心しなきゃ。でもお医者がいいっておっしゃるんだったらいいけど。 

あのしゃしん恵美子によく似ていますね。あの子近所の子供ですか。 

それから兵曹さんになったのは、あれね 近所のしゃしん屋さんだからすぐ焼増して送って上げ様ね。今度お給料貰ったら印画紙買うから沢山伸ばして上げますね。
重ちゃんとこに手紙やったんでしょう。貰ったって来ていた。あの人の手紙とても面白いのよ。
送って上げ様ね。
ではくれぐれもお元気であすごし下さい。 

八月八日 さよなら
あんちゃんへ はる子

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㉞
第5章 どうして故国の兄を忘れようか

   
 

あんちゃん
お手紙ありがとう
そしてレントゲンの写真ももうとうのむかしもろうた。本当におおきに。上海にいるときはまだ悪かったのね。でもあんなに白く骨も見えるようになったので本当によかったのね。   
それから購買に出るとか無理さえしなきゃいいんだけど、無理するようだったらやめた方がいいけど。 
うちね あんちゃん 今月から本俸六十円増俸とも九十円貰う様になった。
女でも大したもんでしょう。フフ・・・ でもあんちゃんもそれ位は上海に来れば貰うかもしれない。
若しかしたらもうすこし安いかしら。女学校を同期で卒業した内で、うちが一番高級者かもしれないよ。でもこれも二年間辛抱したおかげよ。軍需部は男の人でも本俸七十円貰っている人があるのよ。それからうち達の事務所は軍需部にかわったのよ。上(二階)はうちが居るし、下は (一階)は兄さんがいるの。もううんざりよ。ごはんも何も彼も一緒さ。都合は悪いし大嫌いさ。でも仕方がない。

今月からあんちゃん務めるんじゃないね。二三ヶ月遊んでからにしないと駄目よ。どうせ務めるのなら購買より駅の方がいいけど駄目やろね。給料どれ位になるかしら 四十円も貰えるかしら でも力仕事さえしなきゃなんでもいいたいね。呉々もお身体をお大事に
十月十三日 はる子 

まさちゃんへ 
お母ちゃん 吉塚に居らすのかしらん

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㉟
第5章 どうして故国の兄を忘れようか

 

 

あんちゃん みんなどうしていますか
やっぱし博多は面白くないでしょうね。吉塚も変わらないんでしょうね。佐世保に都合良く行けたらね。と(みんな)言っています。そんときは、お母ちゃんも連れて行ってね。給料は安いでしょうね。
上海の江湾という停車場にね、兄さんの知った人が駅長しとらすから、頼んでみようって、言っとらすけど 駄目かしら。

それからね お母ちゃんが産婆さんにあずけているって指輪(姉さんの遺身) それをあんちゃん 送ってくれたらいいけど。
今ね、まさちゃんがいつか ルビーの玉を拾うたって言って姉さんにやったろ、 あれを台をつけているの。姉さんの指輪ってうち知らないから、どんなのか。送ってくれたらいいんだけど。出来なか ったらいいです。一つつくっているから。郵便局に行ったら、どうかして送れるでしょう。お母ちゃん達の言わすとやけん、うそかもしれない。うそやったらいいよ。フフ・・・
ではお願いします。
 お元気で  さよなら
十月十八日    はる子 
まさちゃんへ    
 

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊱
第5章 どうして故国の兄を忘れようか 


あんちゃん 其の後身体の具合は如何ですか 心配しています。
此の間手紙出したのですけど昨日もどって来ましたの。恵子から手紙が来ていましたけど恵ちゃんもまさちゃんとこにいるそうですとか。でもお母ちゃんも恵ちゃんも大変よろこんでいますでしょう。やっぱり恵美ちゃんはお母ちゃんにくっついているんですね。これで上海の姉さんもうちもとても安心しています。
それから右田様方でよろしいですね。今度の会社から送金して貰う様に願いを出していますから。
住所を移る時はすぐ報せて下さい。?と同じで五円しか送れませんけど何かの小遣にでも使って下さい。それから十月分はあたし今迄もっていたのですけど送れませんから。兄さんに送って貰いましたからこの手紙が着く頃はとどきますでしょう。それからお金足りないことはないですか。三人もいるんですから。若し足りないときはあたしにすぐ言ってやって下されば送りますから。
それからあんちゃんはもうよろしいの。身体の方が心配です。あまり無理しないように。
お母ちゃんもそろそろ神経痛が出る頃ですからくれぐれも用心して下さい。
ではまた書きます。博多はみんな達者でしょうね。善ちゃんとこ赤ちゃん
が生まれたそうですね。ちっとも知りませんでした。博多のあんちゃんとこはまだですか。
ではくれぐれも(住所がはっきり判らないので今迄御無沙汰していました)お元気でおくらし下さい。
お母ちゃんによろしく。 さよなら
十一月十一日 はる子
善ちゃんとこ赤ちゃん・・・兄の善一の長女加那子。昭和13年4月出生
博多のあんちゃん・・・兄の末一

 

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊲
第5章 どうして故国の兄を忘れようか 


あんちゃんどうしていますか。元気でしょうか
此の頃さっぱり便りがなくなりどうしているのかと思って心配しています。
十二月の始めから務まるとか言っていましたけどどうなっているのでしょうね。務めていますのですか。
あまりきつい様だったら考えなきゃいけないでしょうから。
それから先月のお給料の時あんちゃんに送ったの着いたでしょうね。さっぱりわからないのでちょっと聞いてみたの。あれは姉さんから兄さんにだまって送らしたのだから返事はうちだけに頂戴って言っていたと思うんですけど。
後の月も今月もお金入りばかりで困っています。今月家があんまりきたないのでもうすこしいい家に移るつもりでいます。その引受賃が四百円に壁と畳とで三百円ばかりになるそうです。
お正月前に着物つくってくれるって言っていたのがもう駄目よ。縫紋の羽織をどうしても祭日にいるので買って貰うつもりでいたところが普段着の羽織に下落してさんざんよ。まあ仕方がないと思ってあきらめています。
くれぐれもお身体をお大事にね。
お母ちゃんどうしていますか。
もうすぐお正月ですね。また寒くなる事でしょうから達者でおらす様にお伝え下さい。
十一月三十日  さよなら
兄上様  はる子

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊳
第5章 どうして故国の兄を忘れようか

 


あんちゃん お手紙おうきん
古賀の療養所に入所したってね。よかったね。
でも半年ばかりかかる様な病気だったら何でしょうか。
はれるって何処がはれているのでしょうか。姉さんに言ったら心臓はれているのじゃないかって言っていました。肺の処にはれるって? でも此の際、一生懸命養生しとかなきゃいけないから 何にも心配する事ないのですから、安心して病気をなおして下さい。

お母ちゃんにはいくらかでも送ります。今月ボーナスがあればよかったけどたった二十円だった。
普通の割だったら、百十円ばかしなるんだったけど本雇になったのが十月だったので。でも来年は当り前になるでしょう。それでお母ちゃんには何にも送れなかったの。今月の二十一日になれば給料を貰うから、それでまさちゃんに五円、お母ちゃんに五円送って貰う様にするから待ってて下さい。お母ちゃんには二ヶ月もおくってやれなくて、うちもすまないと思っているんです。
 
今月家を移ったのに七・八百円ばかしいったので、あまり無理も言えなくてだまっていたんです。
博多もどうして何時も貧乏でしょうね。上海も此の頃は物価がとても高くなり、兄さんのお給料では時々使い込む時があるんです。それで、うちの貯金だけわって姉さんも意気こんでいたけど、どうしてどうしてたまるもんじゃないですよ。うちも少々うんざりしています。九十円も貰っているのだから、五円位はわけないんですけど。でも来月だけは送ります。そうしないとお母ちゃんが可哀想ですから。ではくれぐれもお元気で。
博多のは英子ってついているそうですね。英子っていい名前ですね。

 

十二月七日  じゃさいなら
あんちゃんへ

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊴

第5章 どうして故国の兄を忘れようか 

 

 まさちゃん 
兄さんにくれたお手紙ではっきりわかりました。どうして、うちの手紙には三ところ半に書いてあるんですから。あわくうたです。古賀の病院に入院しているのでしょう。市役所からそんなにわざわざ言って来ているんでしたら、あんちゃんの身体の為ですから行った方がいいでしょう。折角そう言ってあるのだったら、その方があんちゃんの将来にいいんだもん、とても うちも喜んでいます。
 
それから吉塚に女の子が生まれた
そうですね。よかった。本当に姉さんもさぞ喜んでるでしょう。
上海の姉さんはとても喜んでいます。男の子だったら、富士松もさぞ喜ぶのに惜しい事をしたって 一生懸命惜しがっていましたけど、まだ後があるから心配無用って言っております。

 

それから名前 恵美子や栄子みたいないい名前はつけない事ですね。位まけしたら可哀想ですものね。大きなあんちゃんももう三人の子供のおとうちゃんにならしたのね。では今日は忙しいから、また後でお便りします。
 
それで今月はあんちゃんにお小遣おくれないかもしれません。ごめんね、お母ちゃんのお小遣もどうなる事やらわからないらしい。うちもう一人で心配しています。お正月なのに一銭も送ってくれないのだろうかと思って。でもまだお母ちゃんにはだまっていて下さ い。がっかりさすかもしれないもんね。
ではあんちゃんもお元気でね
十一月二十四日  さよなら
あんちゃんへ はる子 

   女の子が生まれた・・・兄富士松(大きなあんちゃん)の後妻の子。英子昭和14.11.23出生
   古賀の病院 ・・・福岡県糟屋郡古賀町にあった傷痍軍人福岡療養所 

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊵

第5章 どうして故国の兄を忘れようか 

 

お手紙ありがとう
四国に行ったの うちびっくりしたよ。おしゃしんありがとう。昌代も加那子
も可愛いのね。
末ちゃんもとうとうとうちゃんになったのね。可笑しいみたいだけど フフ・・・
やっぱり遊んでいるとお小遣も不自由でしょうね。おくってやりたいので姉さんに話してみるからね。
嘉穂郡
に行ったのね。とてもなつかしかった。何時も御無沙汰ばかりしているのでお手紙もやれな い。今度しゃしんも送ってやろう。それからこの前の手紙に指輪おくてって言っていたけど、まさちゃんがくれたのでつくったら、とても上品に奇麗に出来たのでうれしかった。一つね買って貰ったの あまり安かったから、でもそれが嫌いだったのでまたつくって貰ったの。やっぱりね ほしくないって言っていたけど人が持っていると馬鹿みたいにほしくなったのよ。変ね、そいでね、姉さんの遺身の指輪もういらないから。あんちゃんがまた面倒でしょうから。うちがいつか日本に帰った時貰うね。あんまり我儘ばかり言ってごめんね。

 

姉さんが心臓が悪くてねているし、兄さんは痔が悪くて一ヶ月ばかり寝るし上海はもうさんざんよ。
おまけに うちまで この四・五日腹下ししてさんざんの態よ。でもそう大した事じゃないので心配しなくていいけど。

はま姉さんこのごろ元気かしら。いつも病身の姉さんがめずらしいのね。あんな恰好しているのはなつかしかった。
ではくれぐれもお元気でおすごし下さい。お小遣が足りないときはすぐ言ってやってね。送るからおっかちゃん元気って聞いてうれしかった。近頃のしゃしんがほしいなあ。あんちゃんうつしてね
みんなによろしく
十二月二十五日 さよなら
あんちゃんへ はる子 

昌代も加那子 ・・・昌代は兄末一の長女  、加那子は兄善一の長女 昭和13年3月、4月にそれぞれ出生 
嘉穂郡・・・従姉のはま姉さんのところ

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊶
第5章 どうして故国の兄を忘れようか  

 

あんちゃんお手紙ありがとうございました。
此の頃ずっとお役所も家でも忙しいのでお手紙ださずにごめんね。どうしていますか 肺病でなくてよかったね  うちまたびっくりしたの おっ母ちゃんも此の頃どうして居らすかしら?心配ばかりして身体もずいぶん弱ってしまったでしょうねえ 大きな兄ちゃんまた願かけたのかしら 酒飲まんとかそんなしちゃ身体にわるいでしょうにね。博多のどうして何時まで悪いのだろう 恵美子でも上海に呼びたいと思っているのだけども姉さんが身体が弱いのでねえ
まさちゃんは今頃はもう熱はないの すっかり快くなさなきゃ 園木のふみちゃん※も来てくれないでしょうね 古賀は神宮からすぐでしょう 来てくれるかしら ふみちゃんんももういくつでしょうねえ 
でもこんな事考えないで一生懸命養生して下さいね 
もう今迄の様にさいさい手紙がだせなくなったの 事務所のタイプの部屋がえらい人の所の近くに引越したの まる見えさ うんざりよ 一直線にうちに向かって見えるの

 
雑誌も何にも読めないのさ ろくろくいねむりも出来ないと思うの  騒がしいですよって言ったら大尉がね いやいっこうにかまわんよって言うんだから始末につかんよ うんざりよ
昨日婦人公論送っといたから読んで下さい この雑誌は他の雑誌と違って味のある本ですからお友達の人が読んだら奇麗にしまっていて退屈な時 とり出して読んでごらん とても面白いですよ 決して捨てないでとって置きなさいね
では余り長くなりますからこれで またお便りしましょう
一月十日 さよなら
あんちゃんへ はる子
  

園木のふみちゃん ・・・あんちゃんの恋人か?

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊷
第5章 どうして故国の兄を忘れようか

 

御手紙ありがとう それからお母ちゃん達のしゃしんも着いた
相変わらずお母ちゃんの顔のしわ 元気らしいねえ 姉さんが何遍も何遍も見ています とても喜んでいました。
お正月相変わらず 大きな兄ちゃん達も苦しいお金のくめんだったでしょうね お母ちゃんなにも話していませんでしたか お母ちゃん 末ちゃんの所にいるのでしょうか 此の間の手紙に吉野町から来ていましたけどどうしているのでしょうね  吉塚にばかり手紙もお金も送っています 本当の事をしらせて下さい。 若し吉野町でしたらみんな吉野町の方に出しますから  まさちゃんも此の頃はずいぶん病院もあきあきしてきたでしょうね 辛抱してすっかり快くなる迄居ってください 看護婦さん達に何かお正月にお礼をしなきゃいけなかったでしょうね 上海から何か送ろうか 蓮の実かなにか 憎まれないようにしなきゃあんちゃんが損するからね
 お金もう使ったでしょう 拾円位の金はそらちも(?)もないんだから うちも今、給料前でお金持たないの ここに五十銭だけあるから 一緒に入れとこうねえ 恵子にね お正月にうちのお小遣いから一円入れてやったら 貰った事やら返事に出さない  三河内のはね やはりすぐ返事はくれたよ。 お給料は九十円も貰っているけど何々使うのやろか一銭も残らんよ。あんちゃんにはたった拾円送ってやりながらあきれてしまうよ。もう少し送れたらね 吉塚に行ってからあまり面会に来ないでしょうね せめて手紙でもと思っていながら 務めの身の悲しさ自由に書けないのよ 今丁度お昼休みよ。 もう時間が過ぎたからこれ位でまた後でお便りします。

 一月十八日  さよなら
 兄上様 はる子  

 


海からの手紙 あんちゃんへ ㊸
第5章 どうして故国の兄を忘れようか    

 

まさちゃん お手紙ありがとう
其の後ずっと元気で何よりです。うちもね此の頃は
 大変達者になって来ました。
まさちゃん肺浸潤ってそうなの。ちっとも知らなかった。半年ばかり居たら出るって。そんなこと言ってももし悪くなったらどうするの。今度こそ路頭に迷う様になるじゃないの。
そう言わずにお医者さんが出ていいっておっしゃってからじゃないと駄目よ。馬鹿ねえ、退屈でもあんた
の身体の為よ。人は知らないのだからね。折角入ったら奇麗になおる迄は居なきゃいけないじゃないの。人生ってそんな、あんたの思う様になりはしないのよ。鉄道だって辞めなきゃいけないのだったら辞めていいよ。 療養所出たところでいい事ばかしが待ちかまえているものですか。きっと悪い事ばかしよ。働くのだってちっとも面白くないじゃないの。あたしなんか毎日毎日つらい思いして勤めているじゃないの。元気になってからなんでも楽しい事はあるものよ。
  
それから婦人公論着いたってね。お手紙も一緒にね。手紙の中に五十銭入れて置いたのもあったでしょう。それから しおり わざとまさちゃんに入れて上げたの。うちは持っているから。(そのことを)言うてやるの忘れていたもんね。
今日はとても忙しいの。ではこれ位でね、また後でゆっくり書くからね。二月号の婦人公論今 読んでいるの。婦人週報買ったの、読んだらすぐ送るからね。
じゃくれぐれもお体をお大事にね。
一月三十日 さよなら はる子 

あんちゃんへ 

  あんた・・・あんちゃんに対してあんたと言うのはこの手紙がはじめて

   


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊹
第5章 どうして故国の兄を忘れようか

 

あんちゃん お手紙ありがとう あんちゃんもずいぶん快くなっているらしいね。うちもうれしい。
それから内地は大雪とかってね、二十三年振りとか。あんちゃんも風邪を引かないように用心しとかんばいかんよ。
おれしゃんから手紙が来ていた。大濱の練あんちゃんが広島とかに居るそうな。元気でいるそうなだから、よかったいいね。
上海も大雪後、とても朝晩が冷えて寒いです。あたし達朝が早いので七時にはお役所に行かなきゃいけないので困っています。
 
それからお母ちゃんから、上海の兄さんへ鉄道
から(お金が)渡る様になったので送金しなくてい いって、いらんこと書いてきたので、あんちゃんには一銭もおくれなくなったの。うちはそんなに送れなくなれば、何の為一生懸命働いているのか訳がわからんじゃないの。あんちゃんやお母ちゃんによろこんで貰うため辛抱しているのに。 お母ちゃん考えもなしに言って
しまって泣くにも泣けない。鉄道からっていくら宛かしら。少なかったらそう姉さんに言って送るけん いくらか書いてやんない。
それじゃまた後でお便りします。
くれぐれもお身体に気を付けてね。
二月九日 さよなら
あんちゃんへ  はる子
  
それから もうしょんなかけん 兄さんにこれだけ送って来る様になったって手紙ば出しないね。
仕方がないたい。五十銭入れとこうかな。
 
鉄道・・・あんちゃんは入隊前に国鉄で働いていた?   あんちゃんの兄達はすべて鉄道員だった

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊺
第5章 どうして故国の兄を忘れようか

 

兄ちゃんお手紙ありがとう 二月十五日出したお手紙よそれからしゃしんおおうきん。よく出来ているね。うちもすぐ送るから。今度の日曜日は行軍よ。兵隊さんの水筒さげて大場鎮に行くのよ。その時うつすから、出来たらおくるわ。それから鉄道から五十円貰ったのね。それはやっぱり大きなあんちゃんにひとこと言っておいた方がよかろうって上海の兄さんが言いよらすよ。そしてお小遣につかうからってひとこと言っておきなさい。同じ鉄道だから、またばれる事もあるから。その時はお互いにやはり水くさくなるからね。そして自分で小遣いにするからって言っといたらいいじゃないの。病院生活はお金入りばかりって言ってね。そして大きなあんちゃんにも(鉄道に)お礼を出して貰わんといけないだろうもんね。なんなら上海の兄さんの名前で慰問なさった人にお礼状あげていいいよ。うちが新しいタイプで打つから、名前を書いてやんないね。 それからお母ちゃんに五円送ったから安心しなさいね。婦人公論ね、来月号のが来たよ。今の大至急で読んでしまうからね。 それからまさちゃん文学本読んでいるってね、よかったね。うちもね機会があればみんな読んでいるのよ。それから新女苑はとてもいい本なのよ。うちも 時々読んでいるけど何しろ高い本でね。 婦人公論より 紙数が少ないのに高いしあまり読めないけど本屋であらましあいつも読んでいますよ。それからあまり 乱読しないようにね。どんない本読んでも一つ一つ考えて読まなきゃ読んでしまって後はからっぽになるからねえ。やっぱり古典類が一番面白いけどやはりうち達にはあまりわからないの。口語体になおしたのじゃないと、今度うちは是非谷崎潤一郎さんの訳した源氏物語を読もうと思っている。今迄一遍もまとまったみんなを読んだことはないんだもん。ではまた後でお便りします。くれぐれもお身体に気を付けて養生して下さいね。二・三ケ月で帰ろうなんてゆめゆめ思うなかれ。ゆっくり養生して来なさい フフ・・・二月二十三日 じゃさいなら

あんちゃんへ


海からの手紙 あんちゃんへ ㊻
第5章 どうして故国の兄を忘れようか

 

兄ちゃんお手紙ありがとう 二月十五日出したお手紙よ。それからしゃしんおおうきん。よく出来て いるね。うちもすぐ送るから。今度の日曜日は行軍よ。兵隊さんの水筒さげて大場鎮に行くのよ。 その時うつすから、出来たらおくるわ。
 それから鉄道から五十円貰ったのね。それはやっぱり大きなあんちゃんにひとこと言っておいた方 がよかろうって上海の兄さんが言いよらすよ。そしてお小遣につかうからってひとこと言っておきなさい。同じ鉄道だから、またばれる事もあるから。その時はお互いにやはり水くさくなるからね。
 そして自分で小遣いにするからって言っといたらいいじゃないの。病院生活はお金入りばかりって言ってね。そして大きなあんちゃんにも(鉄道に)お礼を出して貰わんといけないだろうもんね。なんなら上海の兄さんの名前で慰問なさった人にお礼状あげていいいよ。うちが新しいタイプで打つから、名前を書いてやんないね。

 

 

それからお母ちゃんに五円送ったから安心しなさいね。
 婦人公論ね、来月号のが来たよ。今の大至急で読んでしまうからね。 それからまさちゃん文学本読んでいるってね、よかったね。うちもね機会があればみんな読んでいるのよ。それから新女苑はとてもいい本なのよ。うちも  時々読んでいるけど何しろ高い本でね。 婦人公論より 紙数が少ないのに高いしあまり読めないけど本屋であらましあいつも読んでいますよ。それからあまり 乱読しないようにね。どんない本読んでも一つ一つ考えて読まなきゃ読んでしまって後はからっぽになるからねえ。やっぱり古典類が一番面白いけどやはりうち達にはあまりわからないの。口語体になおしたのじゃないと、今度うちは是非谷崎潤一郎さんの訳した源氏物語を読もうと思っている。今迄一遍もまとまったみんなを読んだことはないんだもん。ではまた後でお便りします。
 くれぐれもお身体に気を付けて養生して下さいね。二・三ケ月で帰ろうなんてゆめゆめ思うなかれ。
 ゆっくり養生して来なさい フフ・・・
 二月二十三日 じゃさいなら
 あんちゃんへ


  上海からの手紙 あんちゃんへ ㊼

 第5章  どうして故国の兄を忘れようか

   
 
あんちゃん お手紙ありがとう
 三日振りでやっとお役所に出て来たです。お腹こわしていて本当に困っていたんです。それから上海の兄さんはね 今月の一日より中風の前兆とかで手足が思う様に動かないで床に着いたきり起きれません。とても困っています。 薬でもあればいいんですけどね。そいでお見舞の手紙出して下さいね。 

それから栄子は死にそうだとかまあ大変な事じゃないの。一体何の病気でしょうね。 とても上海では心配しています。早速博多にも手紙出して見ましょうね。末ちゃんは基山に転勤とか始めて聞いた。びっくりしたよ。五十円やったってね。 大きなあんちゃんどうしてそう運が悪いのでしょうね。 死んでもくれたら恵美子が可哀想よ。独りぼっちでねえ。 

何処も此処も不幸ばかり続いて本当に困りますねえ。 

お母ちゃんのしゃしん引き伸ばしてまで送らなくていいからね。お金が入るからね。しゃしん道楽もお金が入って困るねえ。 五円のしゃしん機であれだけうつればいい方よ。あたしのあれね。百五十円の。たいして変わらないね。

 

ではくれぐれもお身体をお大事にね
 忙しいのでゆっくり書けないで乱筆ですが判読して下さいね。じゃさよなら 

三月七日 

はる子   

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊽
第5章 どうして故国の兄を忘れようか
    

   
 御手紙ありがとう。しゃしんもありがとう。どうですか良くなりましたか。
 上海も愈々初夏らしくなりました。兄さんも大分良くなりこの分では、来月あたりからお役所に出れるようになりはしないかと思っています。 あんちゃんもあまり急がずに気長に養生して下さい。それから写真もあまり熱中しないように、どうも身体の方が良くないのに無理しちゃいけない。現像したり焼付したりするのは一番きつい。うちがしてみてよく判っていますから。
 
咲く花は散り・・・・・・・云々 これあたしもうろおぼえに覚えていました。確か吉田?郎さんのじゃないですか。
 ふと見れば月の光は窓さして 療友の寝顔を照らし居るなりこれはとても良く出来ていると思いました。
 それから天長節に沢山しゃしん撮りましたからおくります。今度新調した着物ばかりでよ。あてにして待ってて下さいね。出来ればすぐおくりますから。
 じゃくれぐれもお元気で

 

二十八日の朝 長谷川一夫(林長二郎)が武官室に来たのよ。「支那の夜」をとりに来て武官室には撮影しに来ていたの。大きなキズが左頬にあるのよ。何時もお茶出したことない  あたしが、出してサインして貰ったので笑われた。一緒に写真撮りましょうってみんな言ったけど、恥ずかしかったから止めた。(長二郎)の写真出来たら送ります。 さいなら
 四月三十日                          
 はる子

 
あんちゃんへ
     

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊾
第5章 どうして故国の兄を忘れようか 

       
あんちゃん 如何していますか
 随分御無沙汰しています。もう躰の具合も大分よろしいんですね。
 それからあたし今月限りで此処よす(武官室)つもりですから、これからのお手紙は武官室宛で出さないで下さいね。上海?克利克路光裕里二十七号宛にして下さいね。
 いろいろ癪に障る事情があったものですからやめるのです。就職の口はまだ判りませんから一ヶ月は遊ぶつもりであります。
 ではくれぐれもお元気でまたお便りします。
 いろいろ考えていますのでゆっくり落ち着きましたらお便りをします。 

さよなら

 


上海からの手紙 あんちゃんへ ㊿
第5章 どうして故国の兄を忘れようか  


あんちゃん お手紙おうきに
 その後 お変わりなく元気でお過ごしのこと何よりです。
 上海もみな達者でおりますゆえ御安心下さい。
 それから写真着きましたそうで。今年のは特別良く出来ていました。少し小さいのでお母ちゃんには見えなかったでしょうね。恵美子やっぱりあんちゃんとこに居ますか。心配でしょうね。いろいろとそれからタンス買ったのね。よかったね。それで家の中も少しは落ち着いたでしょうね。お母ちゃんももうずいぶんきついでしょうね。朝早くからお炊事からなにから一人だから。お金が足りない時は何時でも言ってやって下さいね。上海もめっきり寒くなって来ました。でももう三月にもなれば暖かくなるでしょう。それから兄さんの件どうもみんな心配してくれてすみません。もう心配ないから確かなことはわかりませんが内定だけはしてあるそうですから。

 

会社に務めるようになって思う様に手紙が出せないものだから、御無沙汰ばかりしています。お互いに身の回りが忙しくなるものだから。でも便りがない方がかえって無事のうちだからいいのよ。でもくれぐれもお身体だけは気を付けて下さいね。お母ちゃんはあんちゃん一人が頼りなのだから。

 

ではくれぐれもお身体をお大事に
 二月二十三日  さよなら
 兄ちゃんへ  はる子 

「華中鉱業有限公司 」の会社便箋を使用    

 


上海からの手紙 あんちゃんへ 51
  
第5章 どうして故国の兄を忘れようか  

   

恵美子ちゃんどうも御手紙ありがとう
みんな元気で姉ちゃんもあんしんいたしました。
おてがみによれば恵美子ちゃんは政ちゃんとばばしゃんとこに居るし、栄子ちゃんは吉塚のばばしゃんと重ちゃんとこにいるそうですね。ほんとにほんとに姉ちゃんはかなしくてなりませんでした。でも恵美子ちゃんが好きなところに居るのでしたら、ねえちゃんもうれしいです。栄子ちゃんはがっこうに行っているのじゃないですか。それから恵美子は大学通の近くの学校に行っているのですか。 もう五年生になったんでしょう。ばばちゃんのおてつだいをよくするのですね。ねえちゃんは、五年生になったときはもう恵美子ちゃんのお母ちゃんのおてつだいをしていました。それから通信簿が大分上がっていてよかった ね。早く甲組になるようにあんちゃんによくきいて勉強しなさいね。大きくなれば屹度々々、恵美子ちゃんを迎えに来ます。 ねえちゃんは、恵美子ちゃんがばばちゃんよりはなれないで一しょにねえちゃんのかわりに居てくれる
のが一番うれしいです。
ではまた書きます。くれぐれも御身体をお大事に   
さよなら
四月一日
それからお金三円入れて送ります。若し着いたらあんちゃんに、ねえちゃんの会社宛に手紙を出してもらいなさいね。学校に入るものを買いなさい。 まだほしかったら何時もねえちゃんに手紙出しなさいね。 

 


上海からの手紙 あんちゃんへ 52
第5章 どうして故国の兄を忘れようか 

         
あんちゃん
どうもおてがみありがとう。
 お元気でお働きのこと何よりです。そしてお母ちゃんも達者とのこと、わたくしもそれでやっと安心致しました。お体が何よりです。もう老体のことゆえどうなることかと毎日案じて居りました。
もしものときは飛行機で帰ろうと思って日本航空に務めている人にすぐ座席をとって貰うよう、話していましたのよ。

 

 うちもうね一度お母ちゃんの顔を見たくて見たくてたまらないのよ。そればかり思っています。このごろ毎晩お母ちゃんの夢ばかりみて、もう泣き度い位です。お母ちゃんに会い度い。お母ちゃんの丈夫な姿をみたい。何故かしらんけどお母ちゃんって言うたら、ひとりで涙ばか出てくるの。あら、また、うちなみだが出て来た。もう泣かない ね  達者だってこの手紙に書いてあるもの。 もうお母ちゃんのこと手紙には書かんと思っているけれどやっぱりお母ちゃんって書いてみたい。日本にいるときは我儘ばかり言ってるくせにね。

 

兄さんや姉さんにおこられるときはすぐお父ちゃんだったらこう言う。お母ちゃんやったらああ言ってくれるってばかり思うの。でもこんなことお母ちゃんには言わないで ね。また泣くからね お母ちゃんが。

あんちゃんも簿給のなかで苦労して、普通の人は遊んでまわる年頃をそうして家庭にしばりつけて本当にごめんね。うちさえしっかりしていればこんなことは少しでもよくなるのに。それから戸田家の兄弟
って映画ね、あたしおてがみに書いてやったかしら。兄弟ってあんなものよ。何処のでも。あながち、うちの兄弟ばかりじゃないの、他人と名のつくものが入ればあんなになるのが普通の兄弟なのよ。 だから特別にうちの兄弟に似ているって考えるのはいやよね。ただ世の親や兄弟に反省をうながしているだけのこと。あたしたち二人だけでもあんな兄弟にならない様に努力しましょうね。いつまでも苦労をあんちゃんばかりにかけさせてごめんね。

 

今日から月給が壱弐円上がったの、それで今までよりお金がたまるの(これはうちのヘソクリ)だから、そのお金をためて、お父ちゃんのお墓の資金やら、お母ちゃんの病気の時のお金を貯めるつもりでいます。と思っているけど、さて実行出来るやらわからないのよ。お母ちゃんに送っているのは、どうぞ使って下さい。 お母ちゃんの若しも病気の時はこちらであたしがためていますから心配しないでね。

 

ではあまり書きすぎたね、またおてがみ書きます。お身お大切に。 
 さよなら
はる子 

戸田家の兄弟・・・1941年(昭和16年)制作の小津安二郎監督の作品    まさちゃんへ  

  

上海からの手紙 あんちゃんへ 53

第5章 どうして故国の兄を忘れようか

 

あんちゃん どうも御無沙汰ばかりしてすみません。    
 何時も何時も出そう出そうと思いながら、忙しいのと郵便局の都合が悪いものだから
 ついつい御無沙汰ばかりしてごめんね。決してあんちゃんが出さないからじゃないの。
 今度新しく変わって忙しくて忙しくて目がまいそうですの。タイピストは六人もいるのですけどね。ほんとにごめんね。 昨日恵子の手紙貰ったの 母親がいなくなれば姉妹ともちりぢりになってしまうのかと思ったら、あの子たちが可哀想でなりません。上海に引き取れるものなら一人位はと何時も思うのですけど、これもままならぬ浮世一人で泣けてきます。 それから恵美子も五年生ですね。やっぱりお母ちゃんのそばに置きますか。あたしやっぱりその方がよいと思います。でもあんちゃんも薄給のなかから恵美子まできて困るでしょうね。それからもうすぐ女学校ですのね。どうしますの やはり博多に置く?ほんとにどうしてこうあたし達、運が悪いのでしょうね。次から次と不運の打続き。ほんとに大きなあんちゃんもたまらないでしょう。
 それからまさちゃんのお仕事、まさちゃんが上海に居る頃は会社もみんなよかったけれども今は駄目よ。お給料が安すぎてね。 上海で百五十円位貰っても到底生活して行けないのよ。それに上海に来ればキミョウにみんな胸の病気になって帰るの。
 それでいろいろうちもあれこれとひとりで考えています。なるだけなら空気のいいとこがいいのです。 博多でも働けるような仕事はめっからないかしら。購買はどうしても駄目  それにあんちゃんは療養所に行っている頃簿記ならっていたでしょう。だから何処か内地でいいとこないかしら。うちもよくいろいろの所に頼んでみましょうね。上海に来ると普通の健康な人でも弱くなるので、なるだけならすすめたくないのよ。うち一度博多に帰りたい。購買にでているのが一番苦になります。どうにか少しでも月給は安くていいから会社に務める様にさがして下さいね。 くれぐれもおねがい致します。  若し足りなかったらあたしが足りるだけおくりますね。
 それから上海の兄さんは昨日海軍大臣に上申したらしいです。正式に通知が来るのは一、二ヶ月後あたりででょうから、まだ願ぼときはしないで下さるようにお母ちゃんにお伝えして下さいね。
 今年の冬はお母ちゃんも達者でしたか。ずいぶん苦労ばかり掛けましたのね。
 今度近所の人がおじいさんを上海に呼んだの。そして見物して今朝の飛行機で博多に行ったのよ。うち航空会社まで行って飛行機も見て来たの。そしたら急に博多に帰りたくなって困りました。三時間で着くんですものね。でももう少しお金がたまるまで辛
 抱します。そしてたまったらお母ちゃんを東京見物に連れていくつもりです。
 ではくれぐれもお元気でおすごし下さいね。 さよなら 

四月一日                        
 はる子
 あんちゃんへ

 


上海からの手紙 あんちゃんへ 54

第5章 どうして故国の兄を忘れようか        

 

あんちゃんへ 御手紙どうもありがとう お金は無事に毎月とれていてよかったね うちも安心致 しました。それからお母ちゃんが病気との事まだ悪いですか大変心配していま すから すぐくはしいことお報せ下さい。恵美子が一人で御飯炊いていますとかほ んとに可哀想でなりません。でもお母ちゃんをそうして見てくれるものがいてうち もうれしいです。 もうずっと前内地で上映された筈の「戸田家の兄弟」見てつくづく兄弟のつめた さを見せられました。また折でもありましたら一度見て御覧なさい。よく出来てい ます。身につまされてしみじみと泣きました。 あんちゃんもあまり悲観論ばかり言うものじゃありません。 まだまだいくつも機 会はあるのですから希望だけは捨てないで下さいね  それから重松さんお嫁さんに行ったそうですってお婿さんはどんな人? 敏子さ んの子供も大きくなったとか 樋口さんとこの敏子さんですか?足の方はよくな ったのですか いろいろみんな変わりましたのね。 あたしの養子口はまだまだ。そんなにまだお母ちゃんにろくろく孝行もしないで お嫁さんなるものですか。 もう二三年してお金貯めてあんちゃんの後をついで おっ母さんと二人で東京見物に行くつもりで一生懸命辛抱して貯めていますの よ。そしてお母ちゃんがキトクの電報が来ればすぐ行かれる様に 別に飛行機 の旅費だけはためています。うちがこうして一生懸命に貯めているのも ただた だおっ母ちゃんだけを想うからこそよ。 東公園の首吊り そんな下等社会のつまらない希望もなにもない人達のことは  ゆめゆめ考えるべからず。お母ちゃんの薬代で若しお金がときはぜひおしらせ してくださいね すぐおくりますから。 ではくれぐれも楽しい気持ちでおすごし下さい。 お母ちゃんの病気心配しています。 すぐおてがみ出して下さい。 四月十日 夜十時五分 さよなら      

戸田家の兄弟・・・1941年(昭和16年)制作の小津安二郎監督の作品   

       


海からの手紙 あんちゃんへ55
 
第5章 どうして故国の兄を忘れようか  


あんちゃん
先日から度々お手紙ありがとう
 おてがみに依れば博多は大水が出たそうで大きな兄ちゃん達も大変でしたのね。それにみどり橋も流れるなんて相当ひどかったんですね。あんちゃんも躰の方はくれぐれも大切にして頂戴ね。こんな毎日毎日雨の多い日はみんな疲れ勝ちだから。 それからお母ちゃんもあまり無理しないように言っといて下さいね。おてがみ読んで見ましたら、何か夜おそくまでお仕事しているとか、年寄りの躰ですからくれぐれも無理しないように言って下さいね。でもお母ちゃんのそばにいられるだけでも幸福よ。 それから恵美子 あんちゃんとこにいますか。何から何まで一人で心配させてほんとにごめんね。うちでも居ればよかったんだけども。こんなになってしまってね。
 それからお母ちゃんにおくっているお金、どうぞもう貯金なんかしないで使って下さいね。美味しいものでも時々は食べて下さいね。こちらでねいくらかでも貯金しているのよ。だからね。
 早く早くおてがみ出そうと思っていたのですけど、とても暑くて事務所が忙しくてこのごろは毎日残業ばかりしているもんですからついおそくなってごめんなさいね。
 お母ちゃんにもくれぐれもよろしく言って下さい。一週間ばかり前 お友達が飛行機で博多迄帰ったのよ。もうね、うち帰りたくて帰りたくてなりませんでした。でもこんな事はみんな上海の兄、姉には内緒よ。フフ----
 くれぐれもお身体をお大事に。
 乱筆乱文ほんとに御免ね。今はお仕事の最中。ちょっとつかれたのでペンをとったのよ。 

7月8日午後3時15分也  じゃさいなら 

我輩
 兄貴へ 

   「華中鉄鉱有限公司」の会社便箋を使用

 


上海からの手紙 あんちゃんへ 56
第 5章 どうして故国の兄を忘れようか 

 
 
ババチャン、恵美子チャン
 オ元気デイマスカ 姉チャンモミンナ達者デ居リマス故御安心下サイ。
 先日ノオ手紙恵美子チャンガ唐津ニ行ク前ニハ間ニ合イマセンデシタデショウネ
 アノオ手紙ノ返事ハ必ズ会社宛ニ出シテ下サイネ
 先日恵美子チャンノオ手紙ヲ上海ノオジサンガ読ンデネ モウスグニオ盆ダカラ ババチャント恵美子チ
 ャン拾円オクルカラッテ言ッテラシタカラ オ金ガ着キマシタラ上海ノオジサントコロヘオ礼ノオ手紙ヲ
 出シナサイネ
 政兄チャンモ元気デスカ オ身体ヲ心配シテ居マス 
 ソレカラ唐津ノトウチャン※トコロニ、オ手紙ヲ出シトキマス。(英子チャンコト)ドウモ顔モナンニモ知ライ
 ナイノデ恵美子チャンノ様ニ思ワナイモノダカラ。
 デハクレグレモオ身体ヲオ大事ニ マタ書キマス
 七月二十四日                                

ネエチャンヨリ
 ババチャン
 恵美子チャンヘ 

 

みんなお変わりありませんか
上海もみんな元気で居りますから御安心下さい。それからばばちゃんのお手紙では善ちゃん達は谷さんの踏切に入ったそうで※本当によかったね。谷さんはおやめになったんでしょうか。
  政ちゃんより少しもお手紙がまいりません。どうしていますか、こちらでは大変心配しています。
 家を移ったこと早くお報せしないから例の送金は八月分まで右田様のところへ送っている筈です。
 至急とりに行って下さい。明治町はいいところですか。また恵美子も学校を移るのでしょう。もうあまり移らないように今のところにキメテ下さいね。学校移るのが一番いけませんから。

 

内地はタオル有りますか。若しなかったら純綿のタオル送りましょうか。それからこれやっと手に入れましたから恵美子ちゃんに送ります。(但しこれは上海の伯母さんが恵美子にあげたの)だから伯母ちゃんと伯父ちゃんにお礼のお手紙出しなさいね。恵美子ちゃんもう夏休みが過ぎましたね。二学期はしっかり勉強して下さいね。
 ではみんなお身体をお大事にお過ごし下さい。
 八月二十九日 さよなら
 ねえちゃん
 ばばちゃん
 あんちゃん
 恵美子ちゃんへ

 

お母ちゃんお変わりありませんか
上海もみな達者で居ります故御安心下さいませ。
 此の頃はほんとに涼しくなってまいりました。博多も大分暑さもとれて来ましたでしょう。
 あんちゃん身体の方はどうでしょうか。そればかり心配しています。

 

それからタオル半打と恵子ちゃんのパンツと運動靴送りましたからお受取り下さいませ。
 まだ沢山送りたいんですけど何も彼も高くて、思う様に送れません。でも純綿類ですと何でもありますから困るときは言ってやって下さい。今日のタオル類はみんなあたしの小遣からですからお返事は必ず会社宛に出して下さいませ。
 ではこれから寒くなりますからお身体をお大事に  さよなら
 はる子 

唐津ノトウチャン・・・大きなあんちゃんのこと。善ちゃん達は谷さんの踏切に入ったそうで 鉄道員のことだろうか  

華中鉱業有限公司 の会社便箋を使用。  3通ともカナ文字でタイプ印字

 


上海からの手紙 あんちゃんへ 57
6章 上海に恵美子を引き取る                   

 

                           昭和十六年十月二十五日
                        住所 上海?克利克路光裕里二十七号
                             第一海軍 軍需部附
                             海軍書記 宮崎 勝
 佐世保海軍港務部長殿
             便乗願

 

一 便乗者    妻   宮崎  テシ(四十三歳)
             姪   林  恵美子(十一歳) 

一 乗船地    佐世保
 一 下船地    上海
 一 便乗理由  母死亡
ノ為 帰郷中処 姪林恵子ヲ同伴復帰 右至当ト認ム
      

                                                                                                                第一海軍軍需部長 

    母死亡・・・おっ母ちゃんが亡くなったのか

 


上海からの手紙 あんちゃんへ 58
第6章  上海に恵美子を引き取る

上海からの手紙 あんちゃんへ 59
第5章 どうして故国の兄を忘れようか 


 お手紙ありがとう
 うちもね つい前 お手紙貰ったから早速返事出すつもりでいたのですけど、暮れ近くで忙しくてとうとう返事も出せずにごめんね。
 お母ちゃんが面会に行かしたってね。このごろお母ちゃんの夢ばかり見て少しばかり心配していたところでした。でも達者でまあ暮らしていきよらすので、うちも安心しております。神経痛っていつものでしょう。困るね寒くなればお互いにね。
 そして兄ちゃん肺に穴があいているとか一体どんな病気でしょうね。うち叱驚したよ。姉さんには言います。でないと一生懸命で何処が悪いのだろうかと心配していますから。 あんちゃんもとんだ病気をつかまえたのね。でも快くなるとおっしゃるのだから辛抱してなおしなさいね。
 お小遣がいればすぐ送ってやるんだから、少しも遠慮しないで言ってやんなさいね。うちがもとみたいに五十円ばかし貰っているときならともかく百円近くも貰っているのだから。少しも遠慮することはありませんからね。毎月五円って姉さん達言うけど何から何までそれだけで足りないでしょうね。そればかし うち心配しているのです。
 今度のお正月にと昨日十円、お母ちゃんにもあんちゃんにも送ったけどお正月に着くかしら。
 おとといお給料貰ったので?間に合わなかったね。おっ母ちゃんももう(お金)持たつさんのでしょうね。うちもね上海に居るときは余計小遣がいるので へいこうしています。
 婦人公論十二月号送りますから読んで下さいね。新年号は今見ているから見てしまったらすぐおくりましょうね。
 ではくれぐれもお身体を大事にね。
 お小遣がいるときは言って下さいね
 十二月二十三日  じゃさよなら
 あんちゃんへ  はる子   

 


上海からの手紙 あんちゃんへ60
第6章 上海に恵美子を引き取る 

  
あんちゃん御無沙汰しています。
元気ですか光子さんお変わりはありませんか。重ちゃんのお話ではしょっちゅう喧嘩していますとか、
あまりチャンバラはやらないようにして下さい。こちらではみな大変心配し ています。
 
上海もそろそろあたたかくなって来ました。恵美子も毎日叱られながら、相変わらずスローモーションでもやもやしています。 二学期中にはどうにかして覚えさせようと一生懸命になっていたのですけど徹底的脳ミソの方に故障を来たしている故、いかなあたしもとうとう匙をなげてしまいました。先日はあたしに試験のこと内緒にしていて知らなかったものだから、試験の前夜見てやれなかった所、百点満点の試験にたった十点です。読方が四十九点、歴史前日一生懸命にやってやっと五十六点です。泣くにも泣けないようなまいり方させられ非常にくさっています。 上海高女も今年は百人余りおとされています。これでは とても入る見込みもつきがたいと存じます。上海のものも今はみんなあきらめています。故、富士松兄にも女学校へ入るなんてゆめゆめ思わないよう言って下さい。毎日毎日教えてどうしてこうわからないのでしょうね。本人が一生懸命になるとよろしいのでしょうが、 いくら叱られてもいくら叩かれてもからっきり反応がないのでつくづく困って居ります。連れて来て半年もしないのにもうまいるなんて、あんちゃんも笑うでしょうね。でも両親とも頭がよくないのにどうして生まれた子がいいわけがありましょうね。 今から配偶者を選ぶ時には頭のいい人を選ばなきゃ先で苦労するね。うちはおむこさんえ らぶ時は頭脳メイセキな人をえらぶよ。
ホ・・・・あんちゃん 同情して!  
  今夜も十二時半まで明日の理科の試験の勉強させてねるときはみんな忘れているのよ。 がっかりしてねむれないのよ。
ホ・・・・・
   
(恵美子が)栄子のことも非常に思っているらしいので、姉さんが重ちゃんがあんなに就職のこと頼んで ? 

重ちゃん呼んで栄子も上海に呼べばよくなるだろうとの考えで呼んだけれども重ちゃんの給料が たった九十円なの。だから上海ではとても三人で生活は出来ない故(栄子は)当分呼ばないことにしているの。
  恵美子もこの儘で女学校にも入れないと日本に帰そうと思っています。内地の事をいろい考えるとどうしても勉強に身が入らないでしょうから。 栄子が上海に呼ばれないようだったら重ちゃんも上海に呼ぶのじゃなかった。うちがあれ程呼ばないと言うのに姉さんが是非呼ぶと言うものだから、 呼んでみたら、とても困ることばかり出来てきてすっかり頭を悩ませています。
 重ちゃんもあれだけ家に来て御世話になり上海の兄さんには大変心配かけて置きながら、始めて給料貰ったからとてネクタイの一つも買って来ないの。 あたしもう兄さんが気の毒でね。 土曜日も日曜日もたんびたんび来て家にとまっているくせ、街に出た時にもお菓子一つ買って来て恵子にやろうとしないの。他人の人にはそんな一つ一つ言えるものではないしね。姉さんは人にクドクをすれば何時かはいい時があるさって、あたしつくづく、どいつもこいつもあいそがつきてしまったのよ。
ホ・・・・・  今度重ちゃんに(手紙を)出す時はあんちゃんからそれとなく言ってやって下さいね。

 

うちは今度昇給して皆で百四十円ばかりになります。これで一息つけてとてもうれしい。  

 

でもこのうち家に恵美子と二人分のごはん代九十円やれば、あとはなんにもなくなるの。バス代が拾円お花の月謝が拾円、 恵子の小遣いが五円、あたしの小遣いが弐拾円はいるし、そのうち、  恵美子は着物一枚もないし着せて行かなきゃいけないし只今はそりゃきゅうきゅう。約束の石塔代はごめんね。 全然残らないのよ。 恵子の春のセェーターがやっと今晩出来上がったのよ。こ れで半袖のセェーターもう二枚もつくってやったんよ。長袖の二枚つくってくれているので今それを着ています。 これから白のブラウスがいるし、夏になればワンピースが一枚もないの。それも自分が作って着せなければいけないし。 でも恵美子はこのごろはすっかりお嬢さんらしくなり、あかぬけがして来て、とてもうれしいです。 着物も日本から持って来たのを着せたらチンチクリンでどうしても似合わなかったけどあたしの着物を仕立直して着せたら、とてもよく似合うので とてもよろ
   こんでいたのよ。相変わらずこの子食うことは人一倍ドンヨクでへいこうしています。毎晩毎晩お菓子食べていて、あたしが少しでも食べようものなら、泣いてわめきます。弁当でも   あたしの(方が) 多かったら、ふくれて昨日は(姉さんから)とても叱られていま した。勉強もあれだけシンコクに考えて熱心になってくれるとこうして育てていて育て甲斐があるのですが。どうもねその方は空っぽさんだから。

 

長いことくだらんことばかり書いて、でもあたしの心のもやもやがあんちゃんにぶちまけてすっかり朗らかになりました。ではまたくさくさした時書きます故、笑いながら読んで下さい。
 それから約束の日本評論 近頃非常な多忙さでどうしても早く読むことが出来ず約束も果たせず さぞおこっているでしょう。ごめんね。三月号よりはきっと早く読んで送るように致します。 是非是非読んで下さい。大変面白いことがいろいろ書いてあります。
 
光子さんも時々はお便り下さいね。喧嘩してくさくさしている時は、おてがみにぶちまけたらすーとするわよ。どうぞご遠慮なく仲の良いところをおしらせ下さいね。ホ・・・・まさちゃんも余り大めしくらわぬよう過ぎたるは及ばざるが如し余りくらうよりもくらわぬ方がよろしい。くれぐれも御身体おいとい下され。なぐり合わぬよう、かみつき合わぬよう仲良くなされたくひたすらおねがい申し上げて、先ずはこれにて さよなら
 三月十日 

あんちゃんへ   我輩
 光ちゃんへ

 


上海からの手紙 あんちゃんへ61

第 6章 上海に恵美子を引き取る  

 

お手紙が行き違いになっていましたね。あの日会社で書いて帰りにポストに入れ、 家に帰ってみたら、ちゃんと来ていました。あれは早速タイプして送りましょう。本当に昨日からするつもりなのに原稿をいつも忘れてまた今日も忘れて来ています
 のよ。歌の題が生涯っておかしくありませんか、もう少し適当なのがないかしら。まだまだ生きなければいけないのに、まだ齢の半分も過ぎていないでしょうに。歌はみんなよく出来ています。
  先日 明石海人の白描
っていうのを読みました。とてもよかった。友達のなので早く読んでしまって、もし書店にありましたら送ります。もしかしたら読んでいるかも知れませんね とてもとてもうまかったのよ。 

光子さんお元気ですか、時にはお便り下さい。
 ではお元気で
 (ここでよすつもりだったのがこんなにながくなりました)
 上海は今ちょうど四時前でこげつく様な暑さです風のない暑さなんてやり切れませんねえ 嬉しい時も悲しい時もお母ちゃんの生きている頃は心になにかよりどころが出来て楽しかったのですけど今はもう誰も頼りに思えなくてとても寂しいです。
             
  真実の母でなければ母の愛情なんて解せません、解させようとするのがやはり無理です。子としての親に対する務めを求めようとするとき、母の愛を持ってしなくてどうして求める事が出来るかしら。今、あたしこの事を真けんで考えています。普通の家庭の子としては知らない苦しい悩みを知らなければいけない母のない子たち  あたしは若し自分に子供が恵まれたら一生懸命で自分のふところで育てようと思っています、どんなにまずしくてもやっぱり本当の母でなければ子供はいけないことをつくづく知りました。  
 

いろんなくだらないこと書いて、でもあたし、自分の境遇は守りつづけて行きます、どんなに苦しくとも。いろいろ変なことばかり書いて、何時も苦しい時はあんちゃんへ夜通し書きます、でもやはりいらぬ心配かけてもとまた破る事が何度かあります、誰にも頼る人もないあたしどうして故国の兄を忘れようかまた書きます    
 七月十四日
 はる子  あんちゃんへ 

とりともない事かいて心配しないで下さい、こんな事決してお返事には書かないで
 下さい  家宛に来る手紙はみんな姉さんが先に失敬して見てしまいます。
  

明石海人の白描・・・明石 海人(あかし かいじん)明治34年-昭和14年 本名・野田勝太郎 大正7年沼津商卒 25歳の時ハンセン病と診断された。まだハンセン病が誤解を受けていた時代で、隔離された「長島愛生園」では文学研究と短歌に没頭。39歳で他界する直前に出した歌集「白描」は25万部を超え、当時のベストセラーとなった
 
「華中鉄鉱有限公司」の会社便箋   

 


上海からの手紙 あんちゃんへ62
第 6章 上海に恵美子を引き取る 


 恵美子へのおてがみありがとう存じました。
 あれも大変よろこんではだみはださず持っています。一ヶ月以上も休んでいるのに全然勉強していないのでずっとおくれていますので大変苦心していまが、どうやら少し位は出来るようになり、この分だと女学校へも入れるだろうと思っています。
 
 あんちゃんにも今度ばかりは大変な御迷惑かけてすみませんでした。恵美子へのてがみ読みまして胸がつぶれる程自責の念にかられました。貴方へ送ったお金がわたしが苦心してためていたものですから。それで貴方のくるしかったことを少しはつぐなえるものと思ってひとりでなぐさめています。本当に光子さんへもすみませんでした。でも唐津からすぐ送ってくれてよか
 ったですね。やっぱり兄は兄と思ったでしょう。
 
それから上海から送ったことは、あたしの会社宛だとよろしいですけど、家へは絶対に書かないで下さいませ。

 

恵美子も唐津の父ちゃんが一揃つくってはくれたのですけど、同じものばかり着せて行かれないしこちらでは恵子が持っているものはおかしいし破けてしまっているので、何でも新規まき直しで ホホ・・・この金入りの時に大変困っています。靴からセーターからカバンから普段着、綿入れ 今姉さんが大わらわでこしらえています。 

連れて来たものの唐津からも貴方からも兄さんに一言・・・(この続き不明) 

華中 鉱業有限公司の便箋を使用

 


上海からの手紙 あんちゃんへ63
第6章 上海に恵美子を引き取る  

 

あんちゃん 戸籍謄本早速送って貰ってどうもありがとうございました。
 大変心配していただいて本当に嬉しかった。
 こんなに急がせてほんとにごめんね、あんちゃんもとても忙しいからだなのに、本当にやっぱりあんちゃんだと思ってとてもうれしかった。おてがみに選れば秀穂ちゃん
が悪いとか、あんちゃんも大変心配ね とても悪いのかしら。 乳児結核はとてもなおりにくいとか、よくよく用心しなくてはいけませんよ。
 
恵美子も、万一の用心に博多の九州女学校と筑紫高女を受けさせる様に手続をして博多の善一兄ちゃんとこに送って置きました。善ちゃんが早く手続をしてくれるといいんですけど。でもこんな事おくれると間に合わないのですから。気を付けて早くしてくれるでしょうね。それから吉塚校にはもういっていただいたかしら。四年の学籍簿写しっていうものだそうだけど、
 向こうの吉塚校で分りましたかしら。内地の女学校ではいらないのだろうと思うんです。けど、こちらでは、それがぜひいるのだそうです。願書受付締切が二月十五日です。それまでぜひ間に合わせなければいけないのですけど、ほんとに忙しいなかにこんなむりなおねがいしてすみませんねえ 。でもこんなに早く謄本を送ってもらえるとはゆめにも思っていなかったので
 本当に嬉しくてなりません。どうぞ恵美子が試験にパスしてくれると、いいんですけど、そればかり祈って居ります。此の頃は毎晩口答試問のけいこをさせています。
 上海も二・三日前雪が降りました。内地もさぞ今頃は寒い事でしょうね。
 もし恵美子がしけんにすべれば三月の初めには連れて帰るつもりでいます。 
 
このごろは恵美子の他に、あたしの事で事件ほどでもないけど、ややこしい事がおきたりしてごぶさたのつづけっぱなしでごめんね。でも心配するにはあたらない事だから、あんちゃんしんぱいしてはいけませんよ。もう少しあたしの気持がおちつけば、あんちゃんに何も彼もはなして、あんちゃんにあやまるつもりでいます。でもなんでもない事だから、これはもすこし、おあづけですよ。おてがみに書いてはいけませんよ。
 
ではくれぐれも秀穂ちゃん、おからだに気をつけて、若しかしたらお母さんのお乳にキンがいるのじゃないの。よくお医者さまにお聞きしなければいけんませんよ。ほんとうにあんちゃんも心配事ばかりで大変ね。

 ではくれぐれも、みんなおからだをお大事に
 一月三十日 はる子 

あんちゃんへ 

秀穂ちゃん・・・あんちゃんの長男 昭和17年9月に出生
 
上海北蘇州路拾号(ブロードウエイマンション)の株式会社揚子公司の会社便箋を使用

 


上海からの手紙 あんちゃんへ64
第6章 上海に恵美子を引き取る 


御手紙ありがとう御座いました。どちらとも筆不精のものばかりそろっていて ハハ・・・
 あたしももう返事を早く出さなければと思っていても、ついつい忙しかったりしてこんなにおそくなってごめんないさいね。
 今日は恵美子は蘇州に行きました。とても早く起きて、帰りにはきっと疲れて帰って来る事でしょう。
 先日父兄会で姉さんが行って見たら、恵美子は平均点が五十点位でとても女学校は駄目だそうなお話だったそうです。自分から進んで勉強してくれるようだったらいいけど、試験の日もあたしにかくれて遊ぶようだから。とても希望めません。あれのずうずうしいのには、今更ながらあきれています。勉強だけはどうもこうも手がつけられません。今度だけは
 もう唐津にもそう言ってやるつもりです。耳が悪い故、お医者に行きなさいと言うのだけど1ヶ月も続いてもう止してしまうし、此の頃は余り甘いものばかり食べるので歯が五本も 悪いそうです。これもまたお医者には行かないのだろうと思っています。今日もあたしと兄さんと一緒にお菓子を買って来たのでリュックサックに入りきれない程、沢山持って 行ったけど、また歯が悪くならなきゃいいと思っています。
   
 ああまたいろいろ書いてしまって、それから先日のお便りの時の注文?
 あれはどうぞ何枚でも打って上げます故、どうぞ送って下さい。それこそお安い御用で ハハ・・・
 光子さんお元気ですか。時にはお便り下さいね。伊良子町に移ったのですね。何処ですか。遠いことでしょうか。
 ではまた書きます。お元気でおすごし下さいませ 
 二月十六日  はる子
   

 


上海からの手紙 あんちゃんへ65
第6章 上海に恵美子を引き取る 


 あんちゃんお変わりはありませんか。
 先日の秀穂ちゃんの写真どうもありがとうございました。よく肥えて大きくなって、本当にからだ が丈夫になって、よかったわね。

 

うちの恵美子ちゃんもこのごろとても大きくなって、去年の服は、みな着られませんのよ。上海の ひとつぶだねで叱られながら本当にいい子になっています。今後ボーナスでも貰ったら女学生 姿の恵美女の写真を、あんちゃんやはかたのとうちゃんにも、おくってやろうと思っています。 女学校に行くようになったら、もう大股で女学生らしく歩く活発な子になりましたよ。 それでもやっ ぱりばばしゃんのこと忘れていないと見えて、叱られた時なんかばばしゃんのしゃしんをかけて いる小部屋に入って泣いたりすることもあって可愛いですよ。
 
それから、うち今度の会社時々事務もやらされるので弱っています。 一番困るのは簿記の数字の書き方、それがしらないのでね。困っているのよ。  あんちゃん、あのね、簿記の数字の書き方、大至急でおしえて下さい。けいこしているのだけど本当のかき方しらんとどうもうまく書けないのよ。ごめんね、いそがしいのに。それじゃみんなお身体をお大事にね。さよなら
 五月六日
 はる子 

上海北蘇州路拾号(ブロードウエイマンション) 株式会社揚子公司」の会社便箋を使用

 


上海からの手紙 あんちゃんへ66
第6章 上海に恵美子を引き取る 


 此の頃ほんとに暑くなりましたね。長崎もこんなに暑いかしら?もうたまらない程じっとしていても汗がにじみ出てきます。お変わりありませんか?先日からのお便りありがとう御座いました。本も此の頃遅くなってすみません。六月号は二、三日前伊良林町の新しい住所宛送りました。七月号大至急読んでおくります。
  
 恵美子も近頃は大分勉強に身が入るようになりました。馬鹿と言ってくれるなってでしたけどあの子の仕振り、考え方、あんまり遅鈍すぎて、馬鹿よりももうあきれてしまう事も度々あります。でも近頃は大分常識が発達してきています。あまり叱らず教えるように工夫していますけど生来の短気者で思い切り叱り飛ばす事もあります。

 

それから短歌のこと、遠慮しないで送って下さい。奇麗に清書して上げます。
 ではまた書きます。どうぞお元気で
 七月八日   さゆなら
 はる子 
あんちゃんへ

 

ホントに二、三十枚訳ないことだから、早く涼しい内に送って下さいね。
 今からまだまだ上海は暑くなりますから 

華中鉱業有限公司の便箋を使用

 


上海からの手紙 あんちゃんへ67

第6章  上海に恵美子を引き取る 

御手紙ありがとう存じました。   
 一昨日岩川町宛出しました最初の手紙が住所不明で帰ってきました。
 でまた銭?町の方へ送りました故、本当におくれてすみません。読んでくださいませ。

 

愈々日米戦争が始まりましたね。 八日朝上海でも戦の一端がくりひろげられ私達は本当に不意の出来事でびっくり致しました。日本はやはり手廻しが早いですね。英の極東艦隊全滅だそうで真珠湾では米の航空母艦を撃沈したそうで、本当に外国もびっくりしたでしょうね。日本人の我々さへ本当におどろいています。昨日までの米のゴウマンなふるまいに ペシャンコをくはせたのですから。本当に胸のつかえが下りたような感がしますね。
 兄さんへの手紙もありがとう御座いました御心配かけてすみませんでした。恵美子達も姉妹相別れて暮らしているのも何にも大きな兄ちゃんの悪いところじゃないと思います。 やっぱりこう育つようになっていたのでしょう。 栄子も父ちゃんとこに置くのが大きな兄の願いだろうけど。どうしてもああしてババちゃんから離れないし、 恵美子もやはりあたしについて
 来ると言うんですもの。 お互いに自分の好きな道をえらんで来ているのだから決してあんちゃんが心配する程の事もないと思っています。
  現に私達兄弟、やっぱりこうして育って来ているのですもの。唐津の兄ちゃんも栄子のところでは、父ちゃんが悪いって言ってとても泣きました。やはり自分の子ですもの。可愛いのには変わりはないでしょう。唯わたしのとこですので安心しているのでしょう。
 私が来ていないで恵美子だけは決して決してやっていないでしょう。栄子も今のところばばさんにあづけていますけど先ではわたしがとって育てましょう。

 

まさちゃんもあまり金々言わないで今が一番大事な時ですからどうぞ滋養分をとって身体を大事にして下さい。あんまり金々と言うと光江さんにあいそをつかされますよ。 あんまりくそ意地ばかり立てよったら人から笑われますよ。 大かいぶりにしないと。ねえ光江さん、そうでしょう二人が借金あわずに楽に食べて行けさえしたら、それでいいじゃないの。そうして、ゆとりでも出来たらぼちぼち子供の生まれた用意にためるようにしなさいよ。そんなに食うのも食わずにためよった日にや病気で一遍で折角ためたお金がのうなる。そんな阿呆らしい事はやめとき。二人で食べて行けさせすりゃそれでいいじゃないの。
 あたしは今のところ1銭の余裕も出来ないです。家に恵美子のくい代と七十円はやっているでしょう。後の三十円ではとてもとてもやって行けません。恵美子の小遣銭は全部あたしが出しているでしょう。 だから恵美子が居る間はあたし一銭も貯金は出来ません。もうあきらめています。

 

恵美子も大分おぼえるようになりました。読方はやはり駄目ですが算術は0点からやっと63点までこぎ上げました。毎晩毎晩十二時、一時まで一家総動員で教えています。もうわたしへこたれたような気がします。でもまあ長期戦でがんばりましょうね。気みじかの上かんしゃく持ちのあたしですから、何べん言ってもわからないときはピシャピシャやっています。わたしと全然気が合わないものですから、どうもいけません。あいつあしたもあろうって言うような暢気な子ですので、どうもこうも御飯もゆっくり食べさせようものなら、きっかり一時間もかかるのですもの、習うのもつらいだろうけど教えるものも
 本当につらいですな。上海の兄貴がね、うちが(あの子がなんかい教えてもわからないもので)かんしゃく出すと心配して学校にも行ってくれたりして。海軍の制服で堂々と自動車で小学校の玄関に横付けして行くので先生達がびっくりして出ていらっしゃたそうです。恵美子も吉塚校より送ってきた成績とくらべると大分出来るようになっているから、余程家庭で教えて下さっているものと思って居りますとおっしゃったそうです。

 

だからそんなに御心配なさらなくても大丈夫ですからとおせじかもしれないけどお っしゃったそうで、こちらでもみんな安心しています。姉さんと兄さんが交替で 学校へ行ってくれるので私もとてもうれしいです。
 ではあまり長く書いてごめんなさい。
 光子さんへもよろしく どうぞ御体を御大事に、あまり御飯を食べないようにして下さい。
 そればかりが心配です。
 
昭和16年12月10日 はる子 

あんちゃんへ 

日米戦争・・・昭和16年12月8日の朝に、ラジオで日米開戦が放送された。  ハル20歳のとき

 


 

上海からの手紙 あんちゃんへ 

 
 あ と が き 

 

この書簡集は、わたしの母ハルが戦時中養父母とともに過ごした上海から日本の兄( あんちゃん)に宛てたものです。ここに掲載した手紙や写真は母が昭和49年に他界した翌年の一周忌の法事の時にその兄からいただいたもので 100通にもなります。すべて母から兄に宛てた手紙で兄から母に宛てた書簡は当然ですが兄からもらっていません。したがって片道書簡集です。この片道書簡集では妹の兄に対する思いはわかりますが、兄の 妹に対する思いは推し量るしかありません。その兄も今は既に他界しております。

 

手紙の差出日には年号の記載はなく日付しか書かれておらずその日付すらないものもあって、順序がかなりあやしくなっております。また異国の地で何度も夢を見たというおっ母ちゃんの死や兄の結婚、ハルの転職といった重要なことについて書かれた書簡がありませんでした。 したがって兄からいただいた手紙は、母が兄に出した手紙の一部ではないかと思われます。 

  
手紙の実物はすべて縦書きで書かれ、使われた便箋は通常の便箋以外に原稿用紙や会社便箋、タイプ用紙、ノートを切り取ったものなど、ペンは万年筆以外に鉛筆書きも多い。多くは仕事中や昼休みそして就寝前などに急いで一気に書いたと思われます。 訂正や推敲などなく心に思うところを日常のことばで表現しており、内容は病気やお金のことなど切実なことが多く、とても現実感にあふれたものです。とくに住まいを転々とした実の母や妹の恵美子そして病気の兄に対する思いや送金のことについて何度も何度も書かれています。若干17歳とは思えない家族への深い情愛や 、戦時下にある日本国への愛国精神など一人前の大人としての聡明さも感じさせるものです。


終戦
後、兄は国鉄の機関士として定年まで働きながら小説や短歌などを鉄道の同人誌に発表していたようです。 一方16才のとき上海に渡航したハルは、 手紙の中にもありましたが「結婚するなら頭脳明晰な」父と上海で出会い 24才のとき上海で結婚、終戦とともに日本に引き上げ実業家の妻としてこれまでのような身を削るような経済的な苦労はなく、 また3人の子の母親として手紙の中で書いたように、「自分の生んだ子を母親としての愛情をもって」育てることができたようです。そして故郷の大村、佐世保の養父母や博多の兄、上海で一緒に暮らした恵美子のことを思い続けていたに違いありません。姪であり妹であった恵美子は、上海の養父母とともに佐世保に引き上げ、婿養子を迎え養父母の家を継ぎました。 

 

兄から手渡されたものには、これらの書簡の他に「早鉄クラブ文芸誌」という同人誌がありました。 これは兄が国鉄時代に入っていた文芸クラブの同人誌です。 その中に妹のハルが亡くなった昭和49年に妹のことを書いたと思われる短歌が掲載されていました。上海時代から30年も後に書かれたその短歌で わたしははじめて兄の妹に対する思いを知ることができました。この書簡集「上海からの手紙」は第一次世界大戦が始まる直前に、上海から故国の兄にあてた手紙です。兄に対する妹の深い情愛に満ちた手紙です。そうして30年が過ぎて異国に地に先立った妹に対する兄の恋人のような思いを知って、わたしは涙があふれて止まりませんでした。ハルは53歳のとき悲運な事故に遭遇しその日のうちに人生を絶たれました。 その訃報を遠く離れたところで聞かされた兄は、いったいどんな思いだったろうか。
青春時代にハルがあんちゃんに懸命に書いたこの 「上海からの手紙」を想い出しただろうか  

 

・黒髪は乱れたるまま血のこびり蒼白な顔よ妹眠るごと

・蜂ケ峰※四季花匂う奥津城ゆ安かに眠れ先きつわが妹よ

・夕昏れて一羽烏の西にゆくわが思い妹の魂や導びけ

・ゆき暮れてともし灯もなく妹は逝く黄泉路の国そ母迎え来ね

・もの思いつ涙流るる時のあり冬ざれの夜をひとりいるとき

・冬去らば吾れやひとり旅ゆかむ思いもむなしくづれゆく春

・朝に咲き昼はや萎む朝顔の短かき命に思い至りぬ  

 (早鉄クラブ文芸誌 シグナル 第14号より 林政一)

蜂ケ峰・・・大阪府堺市鉢ケ峰霊園のこと

 

・・何時も苦しい時はあんちゃんへ夜通し書きます、でもやはりいらぬ心配かけてもとまた破る事が何度かあります。誰にも頼る人もないあたしどうして故国の兄を忘れようか、一日たりとも忘れた事はないつもりですのよ・・

 (上海からの手紙より 林ハル)

 

ハルは戸籍上の名前で女学校時代は春子,上海時代ははる子、結婚してからは治子と称した。 姓は林から養女先の宮崎そして結婚して青木となった