IMGRIMOMGRI'S  PROFILE

HandleName/IMGRIMOMGRI   sex/MAN   birth/OSAKA   address/KOBE     

Facebookでは実名で勤務先職業など公開。会社のHPでは実名でプロフィールとキャリアを公開。twitterでは実名をローマ字表記で公開。このHPではHandleNameでプライバシーとプロフィールを公開。このプロフィール(What have I done in MY FREE TIME?)は文字数12520(原稿用紙31枚)画像76もありますが結構面白いから最後まで読めると思います。読み終わるのに平均で21分かかります [ ]書きは画像付き。 

What have I done in MY FREE TIME?

大和の古寺巡礼から始まり、堺泉州での投げつり、[夜釣り]ではタチウオ、当時は堺に住んでいたので泉南までよく車で釣りに。泉南と言えば一生忘れられないことあり。ある漁港で車の幅くらいしかないスロープをバックで下っていて踏み外し[車が横転〕したことがあったよな。まさかの横倒し空に向かって運転席の窓から慌てて脱出、幸いケガはなかったけど。心が凍りついたわ。富田林に転居してからは海が遠くなって石川で鯉釣り、そういえば熱帯魚の飼育、特に大型肉食魚に熱中。[レッドテールキャット]のかわいい姿と驚異的な成長。エサには生きた金魚を投与した。それを卒業してからは林道に入り込んで出会った数々の山野草の魅力にとりつかれた。[木漏れ日]の林床で春の息吹を感じる。雪の中から顔を出す黄金色の[福寿草]、オウレン、バイモ、シュンラン、ロウバイ等早春の花に特に魅力を覚え自生地まで何回か見に行ったほど。音楽は[さだまさし]井上陽水、最近見た映画はYAHOO無料配信で見た[自転車泥棒]、映画といえばやはりイタリア映画フェデリコ・フェリーニ監督作品の[道]やヴィットリオ・デシーカ監督の[ひまわり]などLOVESTORYがいい。 最近の作品では[マデイソン郡の橋]がよかった。絵画は信州穂高の美術館で感動した[ジャン・ジャンセン]、登山は近場の金剛葛城岩湧山と大峰大台山系をフィールドとし早朝登山で頑張ったりした。当時枕元にはいつも登山ガイドブックをおいて眺めながら就寝、大峰[山上ヶ岳]登山の時は登山口茶店で買ったおにぎり3個だけで小雨降る中をずぶ濡れになり登頂。そう言えば大台ヶ原登山で[旧大台荘]に宿泊した時、以前勤務していた会社の上司に食堂で偶然出会ったことがあったな。大台ヶ原までは大阪から3時間標高1600mそんな場所で同じ日に同じ宿に宿泊し同じ時間に夕食。こんな偶然て一生に二度とないだろうね。旅行は関西圏以外では実家がある山陰と上の娘が住む信州だけ。下の娘が一時期住んだ八ヶ岳山麓には2回行ったかな。信州では[上高地]と[白馬八方池]が絶景ビューポイントだった。幾多の画家たちに描かれた河童橋からの穂高連峰と梓川、残雪が残る山々を背景に透き通った清冽な梓川に感動。八方池まではゴンドラとリフトを乗り継ぎ標高2000mの尾根をトレッキング、目に沁みる紺碧の青空、白馬三山を映し込んだ神秘的な八方池に感動。宿は漁村の民宿か高原のペンションがいい。丹後半島の[伊根の民宿]夕霧と穂高温泉郷にあるペンション[メープルリーフ]には特別な思い出がある。伊根旅行はGWの最中に思い立って無鉄砲にも宿泊予約なしに訪ね、伊根に着いたとき、日はすっかり落ちてどの民宿も泊まり客の夕食の支度に追われていた。一軒一軒「今晩宿泊できないでしょうか?」とかすかな期待を持って聞いて回ったが「今日は連休なのでいっぱいです」ことごとく断られ、入り混んだ路地裏の石の階段を上ったり、降りたりしているうちにますます絶望的になって空腹感も最高レベルになった。その民宿の名前は夕霧だった。「いいよ。残り物で今から準備するよ」と言ってくれたご主人の顔は日焼けし深い皺がきざまれ漁師だとすぐわかった。あたたかい眼差しと美味しい魚介料理に救われました。翌朝目を覚ましたら窓から差し込んでくる朝日、窓からは舟屋の風景。それから13年経って伊根の舟屋を再訪、その時のお礼が言いたく「夕霧という名前の民宿知りませんか」「その民宿なら何年か前に廃業されたよ」わたしたちは老いた夫婦を尋ねた。舟屋の裏は海。今も小さな舟が係留されていました。ご夫婦は変わらぬ笑顔で迎えてくれお土産に魚をいただいたことが懐かしく思い出されます。メープルリーフは上の娘が信州大学に合格したので初めて信州を旅行し、泊まったペンションです。白樺雑木林を眺めながら美味しいフレンチとモーニング、そして温泉。ペンションって最高だなとその時は思った。それからキャンプと星空にも忘れられない思い出がある。瀞峡の河原で[キャンプ]した時に見上げた満天の星と流れ星(ブログ①)、大杉渓谷の[桃の木小屋]から未明に見た満天の星空(ブログ②)いずれも生涯忘れられない感動がありました。感動と言えば、東吉野村の登山口から[明神平]に登ったときは渓流の激しい水音と木々に覆われた登山道から見上げた紺碧の青空が今でも思い出される。そういえば由良町の[白崎海岸]の白亜の岩肌とエメラルドグリーンの海にも感動したな。今は[ガーデニング]と静かな[カフェ]がいい。安曇野の森にある[BANANAMOON](廃業)は週刊新潮の表紙絵を長年描いた成瀬政博の幻想的なイラストが展示されたミュージアムカフェ、森の中の隠れ家的なカフェ。カフェコーナーでも紹介しています。ペットは18年間庭で放し飼いした今は亡き愛犬の[ボビー](ブログ③)とペルシャチンチラ猫の[ノンタン](ブログ④)  車はトヨタの[プリウス]。写真は最近は日没前の[民家の幻想的な灯り]を撮影。[廃校]もこどもたちの明るい声が遠くから聞こえてくる。オークションでは車の売買までし、新幹線に乗って浜松まで買いに行って怪しいパキスタン人から即金で購入したものの整備不良箇所が次々に露呈、HPやBLOGにも少しはまり世界に向けて発信してみたが、書き込んでくれるのは身内と「書き込んでネ」とたのんだ人だけ。アフィリエイトにもはまったがあまりお金にはならなかった。嗜好はコーヒーとタバコ。その他家の補修と整理それと自転車の分解と組み立ても趣味。すべて中途半端なかじり方で群れを離れて一人で楽しむものばかり。温泉は鄙びた公共浴場がいい。安曇野の町営[旧しゃくなげ荘]がよかった。 場所は忘れたけど朝早く車で散策していて偶然見つけた信州の野営無料温泉洗い場もなく野趣いっぱいだった。今でも思い出します。真冬に震えながら岩礁にある温泉、海と一体、硫黄と潮の香り、波の音を聞きながら入った南紀白浜の[崎の湯]は最高だった。橋本市の[やどり温泉]は宿泊したコテージ内に大きな温泉浴槽があり、渓流で鳴くカジカガエルの美声を聞きながら一日中温泉に入った。 温泉で思いだしたが南河内に住んでいたので奈良県下にある日帰り温泉にはすべて行ったと思う。関西随一の渓谷美の御手洗渓谷がある天川温泉や修験者の宿坊が立ち並ぶ洞川温泉には何度か行きました。天川と言えば夏のある日の夕方、急に思い立って一人で車を走らせ[天河大辨財天社の宵宮祭]に行ったことがあったよな。森閑とした聖地ですっかり日が落ちて神社は暗闇に包まれヒグラシの声が鳴り響く。能舞台にはたくさんの人々が集まり、神楽が奉納され歌舞が演じられる。静寂な夜に幻想的で心洗われる時を過ごしました。それにしても夜に車で往復3時間をかけ、まさに猪突猛進とはこのことを言うんだろうね。猪突猛進で思い出しましたが亡父の従兄弟の子との交流があります。父が亡くなったとき、父方のルーツを調べるため、父の出生地の海南市から戸籍謄本を取り寄せ、家系図を作成しました。そんな作業をしていて祖父の本家(祖父の兄弟の長男、父の従兄弟)が海草郡下津というところにあり、父の従兄弟の子青木保明さんが存命だとわかり、青木の姓を継承している貴重な親族だという思いからか、わざわざ和歌山県海草郡下津町興というド田舎を尋ねました。みかんの産地で陽当たりのよい山の斜面にあるみかんと琵琶の農家でした。「お父様の従兄弟の秀男の息子です」「秀男叔父のことはよく覚えてるよ。よくこんな山の中まで来てくれたね」と大歓迎、みかんをどっさりお土産にくれたのは言うまでもありません。その訪問から既に数十年経過しただろうか。いつ行ったか今となっては覚えていませんが[下津村興への道順を書いた地図]が残っていました。自分のルーツを尋ねた一途な旅、懐かしい思い出です。([]は画像あり)2005   


①目を覚まし、漆黒の空を見上げると鱗雲の大群が全天を覆っていた。雲間から月が見え隠れして、南のほうの空を流れ星が一直線に走った。君は全天周映画を見たことがあるだろうか。大自然のプラネタリウムはめまぐるしく変容し、再び目を覚ますと鱗雲の大群はすっかり流れ去って明け方近くになって空は群青色に変わり、数え切れないほどの星が満天に輝いた。君は明け方にしか見れない群青の空を見たことがあるのだろうか。満天の星空は見たことはあるのだろうか。わたしの心は言い知れぬ充足感に満たされていった。峡谷に挟まれ急流が激しい清冽な音を響かせている。また流れ星が一直線に走った。(当時のブログ) 


②そういえば、近畿屈指の秘境とされる大杉谷の桃の木小屋にいったとき、食事は一杯のカツカレーだけだった。転落の危険箇所やアップダウンが多くて4時間30分かかったが、それ以上の体力を必要とした。ようやく辿り着いた山小屋は、大きなつり橋がかかり、そのつり橋をわたらないと小屋には行くことができない。絵本のような風景だ。食堂に集まってきた大勢の登山客は、みなとても生き生きとした表情で明るい談笑の声が響く。わたしたちはエメラルドグリーンの淵、豪壮な滝、大絶壁、つり橋が連続するすばらしい渓谷を果てしなく歩きようやく小屋に着いたのだから。夜明け前に、何か人の気配を感じて、つり橋にでた。そこには満天の星が輝いていた。しばらく茫然としてことばにならない。少し眩暈がする。君はわかるだろうか。何がこころを充たすのか。こころが充たされる瞬間とは(当時のブログ) 


③今日8月13日18時にBOBBYが永眠しました。この庭に外構も庭木もなかった平成2年(91年)からBOBBYはこの庭の草木とともに成長しこの庭で18年の歳月を過ごしました。当時の庭は一面芝生でした、現在では雑木林のようになって木も大きくなりBOBBYにとってはたくさんの障害物ができましたが、数年前まではとても元気にその障害物を物凄いスピードで飛び越えたりかいくぐったりして走っていました。ネズミモチとヤツデとヒバの木の下が好きで、そこの土を掘り返してねぐらにしていました。休日にリビングで朝食を食べていると必ずそれを嗅ぎつけてと外からパンをおねだり。雨の日も風の日も、雪が降り積もった日も夏の日照りの日にも。土の中の幼虫をほじくり出して食べたり、庭にやってきたハトを捕まえてしまったこともあったかな。そういえばもっと若い時には雄犬がフェンスを越えて庭に侵入しBOBBYに求愛したこともあったな。庭にしたウンチに気づかず何度か靴で踏んでしまったり。郵便配達や新聞配達人にはかみつきそうな顔でよく吠えほんとうに番犬として十分な働きをしてくれました。夜遅く帰宅したときにはよほど不安だったのか特別な鳴き方でエサを求めたり。いろいろなことが思い出されます。そういえば岩湧寺の柴犬に襲われ血を出したこともあったよな。車で一緒に鳥取に帰省したことも何度もありました。単車で散歩に行ったこともあったかな。元気だったよな。身体が弱ってきてからは冬の強い風を防ぐため、犬小屋にユタンポをおいたり、目も見えなくなって後ろ足も弱って引きずるようになってからは小さな障害物にも躓いて転ぶと起き上がれなくなって何度ももがいていたよな。段差のある裏のガレージにいけないようにするためわざわざ通行止めのフェンスをつくったのはついこの間のこと。それでも食欲はあって毎日エサを食べていましたが8月になってからはもはやエサも食べなくなり庭で放し飼いもできず玄関内で横たわったままになりました。雨の大台ケ原の周遊コースをカッパを着せられずぶ濡れで2時間も歩いたこと。カンカン照りの伊吹山では傷を防ぐための襟まきを首に巻いて登山したこと。まだ幼かったとき金剛山の雪の上を嬉々として飛び回ったときのこと。もう老犬になってからだが二色の浜の砂浜をもたつきながら初めて海を散歩したこと。BOBBYは覚えてくれているのだろうか?(当時のブログ)


④2013年11月4日午前4時44分に苦しんで敷いていた紙を噛みちぎりながら息を引き取りました。腎臓病を患い尿毒症で。9歳7ヶ月の命だった。何十回も動物病院に行き何十万も費用がかかったけど。玄関ドアが開くのを見ては、ドアまで突進してきて、いつも庭に出ようとしたね。庭に出て虫が動くのを発見したら虫めがけて一目散。庭が大好きなノンタンでした。庭一面にレンゲソウが咲き花に集まる虫に夢中でした。わたしは家族から「庭に出したらアカン」といつも叱られた。「ダニが付くやろ」ノンタンは飼い主に反抗したり攻撃することは一度もありませんでした。ふざけて足で踏みつけると踏まれてもじっとがまん。動作緩慢、おとなしいやさしい性格でした。就寝時にはいつも一緒に布団に入れて寝ました。しかしわたしが寝たのを見計らって家族はノンタンを引っこ抜いて持って行きます。そんな瞬間わたしも「持って行ったらアカン」と叫び、ノンタンをしっかり掴まえ抵抗します。綱引きになったらノンタンは「ニャオウ」とか細い声で鳴きます。辛く苦しい最後だったけど家族から愛されて死んで行ったノンタンは幸せだったと思っていいかい?いつも枕元で一緒に寝てくれてありがとう。(当時のブログ) 

 

 


写真は二科展に3回(2006.2008.2010)入選したが仕事で深刻な諸問題を抱えたためすっかりしなくなった。登山は再開し2年前に神戸六甲山系の低山を登山、がんばって50山以上を踏破した。[山と高原地図のダウンロード版]を使いスマホに現在地をGPS表示させ、さらに[SUUNTOのスマートウオッチ]で高度、方向を確認しながら、それでも何度かは道を失い途方に暮れたり、落ち葉に足を滑らせて腰を強打したり、小雨に濡れながら歩行したり、最後は兵庫県最高峰の氷ノ山登山で締めくくりました。氷ノ山からの帰路但馬アルペンロードが悪路だと知らないで凸凹未舗装の林道を一時間も延々と走らされ、ナビがこのルートを選択したのを恨んでいたら車の前方に熊を目撃生まれて初めて[熊に遭遇]しました。後で調べてわかったのですがこのエリアには月ノ輪熊がいるとか。[フィッシング]では洞川湖で70-90㎝の[鯉]の強烈な引きと格闘しタモが折れてしまった。海では太刀魚以外は専ら小物釣り、とくに穴釣りでロックフィッシュが中心。アクアライフではなぜかウツボに魅力を感じ[ゼブラウツボ]など縞々のウツボ数種類を飼育した。生来の狂暴性は小さな水槽内ですっかり失せてしまい、終日塩ビパイプの中。食欲もない。というわけで彼らも幸せじゃないと気が付いて飼育を中止。今は神戸の海で釣った海水魚を飼育。「ゴンズイ」や[サンバソウ][ダイナンギンポ]など。特にサンバソウを狙って須磨海岸に毎週末行ったよな。[ゴンズイ玉]を発見し採集できた時は嬉しかったな。ゴンズイ玉って何?と言われそう。画像を検索してください。不思議な生態です。水槽は一番多い時で6本もあった。そういえばモリアオガエルや[シュレーゲルアオガエル]や[ウミウシ]の採集に没入、[サンゴイソギンチャクとクマノミの共生]にもはまったね。相性のいい種の組み合わせに成功し、クマノミがイソギンチャクを寝床にしてくれた時はやったーと心の中で叫んだね。カエルは繁殖期に森林域の生息地に出現してないか何度も通い、木に登ってるのを発見した時はちょっと興奮。ところが、捕獲が結構難しく捕り逃がした時は歯ぎしり。鳴き声はしても姿が確認できるのはかなり限られた瞬間だけ。卵塊からおたまじゃくしに孵化したがアカハライモリに全部食われたこともあったな。カエルは生きた虫しか食わないからショップでコオロギを定期的に購入。コオロギは因みに一匹8円。50匹400円で購入一週間しか持たない。だから、カエルたちが冬眠に入ったら餌やりしなくなりほっとします(笑) その他アクアテラニウムやキノコリウムにも没入、[ドンコ]採集のため小川でのガサガサにもはまったよな。ドンコの餌はモンドリで採集した雑魚、雑魚にはショップで買った顆粒の餌を与えてます。餌のコオロギにはキャベツ。これって餌に餌やってることになるから飼い主さんたいへんやなとよく言われます(笑) すべての生体が餌を食っているか、餌を食わない生体は採集場所までわざわざ行ってリリース。リリースと言えば、魚でもカエルでも飼育匹数の管理は極めて重要。水槽内に多く入れすぎた場合は必ずリストラ、生息地にリリースします。飼い主の義務と責任と言うもんや。犬猫の多頭飼で動物虐待が問題になることがあるが無責任極まりない。採集道具で欠かせないのが[モンドリ]と[カニカゴ]モンドリは川で餌用雑魚の採集、カニカゴは海で観賞用稚魚の採集に専ら利用。カニカゴで衝撃的だったのは1mもある[海鵜]が入っていたこと。死んでいたのは悲しかったね。タコが入っていた時は嬉しかったけど。目当ての生き物が採集できた時は至福の時間だったね 。西舞子漁港で子供から縞模様がキレイな[カゴカキダイ]をもらったことあったな。「なんか珍しいのが釣れたよ」「それくれない?」「うんいいよ」喉から手が出るものが手に入り数日間幸せを噛みしめました。もっとも多くフリータイムを費やしたのは[ガーデニング]。30年前に家を新築した時は、庭には一面芝生を敷き詰めたが、山から採取した苗木や山野草、植木屋から購入した庭木を植え付け、気が付けば楠やサワラ、ピラカンサ、百日紅は高木に成長、蘇鉄は巨木に、特に山から採取し車に積んで持ち帰った[合歓木]と[トチノキ]は大木に成長し庭を覆うようになった。合歓木は6月頃薄紅色の糸状の花が一面に咲き、トチノキは大きな掌状の葉が展開し魅力的だった。でも樹形が自然に整うトチノキと比べ合歓木は四方八方に枝を伸ばし破れ傘で庭を覆った有り様で見苦しかった。無知というのは怖い。庭に植えてはいけない高木を植えたり、樹形が広がって境界をはみ出す木を植えたり。[蘇鉄]は繁殖力が中途半端じゃない。子株が無数に生い茂って剪定が一苦労だった。手は痙攣するしゴミ袋に剪定した無数の刺々の葉を詰める作業が長時間かかり死にそうになった。アッイタタッ。それでも蘇鉄の独特な形の花や実はとても魅力があったね。その他レンガの遊歩道を造ったり、ピンコロで囲ったり、藤棚を製作したり、その藤棚にハトが巣を造り雛を産んだこともあったね。[大木をチェーンソーで伐採]したり、大量の落ち葉を雑木林に捨てに行ったり。ある日覆い被さったツタが蚊が湧く原因だと考えて手でツタを引き抜く作業していたらツルで爪を剥がしてしまった。ケガと言えば岩肌から苗木を引っこ抜こうとして岩が手に墜落し何針か縫いました。いずれも痛い思い出。今年[新邸]に転居した時は、旧邸から移植したり、新たな庭木を植え付けたり30種ほど植栽。とにもかくにもガーデニングには膨大な時間を費やしました。庭でバーベキューも数回したが、後片付けは手間だったが楽しい時間だったね。ここまで魚やカエルやガーデニングのことなどグダグダ書いてきて「のほほんな話ばかりでショーもないわ」と言われそう。なので人間との係わりも多少書いておきます。ここ数年間の間に大学時代と卒業後間もない頃の友人と次々と再会を果たしました。再会は手紙だけの人、電話だけの人、実際に再会した人など様々、いずれにしても長い年月交流がなかった人たちです。45年ぶりに電話で話した現在千葉県館山市に在住の東京工業大学卒業後高校教員をしていたTH君、彼は長い空白期間を埋めようと次から次へ自分にあったことを詳細に語りだしたのでわたしも理解がついて行けず。気がつけば一時間30分も彼の話しは止まらなかった。弘前市在住で大学教授を退官し市議に立候補し落選したFN君、40年ぶりに再会したTS君、彼は宮島で飲食業で成功したんだがわけあって離婚し出身地の東京に単身戻って銀座で画廊をオープン。HEくんとも数十年ぶりに電話で話した。彼は東大卒公衆衛生関係の研究者として公務員を退職。彼は幼い頃に片腕を失くした。土佐のYKくんは何とインターネットで所在が確認できた。彼は慶應大学で同じクラスの無二の親友だった。なぜか建築士になって故郷の高知で息子と一緒に建築事務所を経営していた。大学のサークルの同窓会が岐阜高山であったとき、それに初めて参加しOH君と再会。彼とは大学時代から会っていなかった。お互い懐かしさのあまり涙が出そうになった。その時にHTさんとも再会。彼は嫁さんとこに婿入し小田原で塗装業を経営、今は息子に事業承継し修善寺に別荘を持って鮎釣りや蜜蜂の飼育などに悠々自適の生活をしていました。大学卒後に勤務していた会社の経営者TAさんとは(前述した)大台ケ原で偶然出会って以来、facebookで発見し35年ぶりに神戸で再会しました。同じ会社で働いていたTYさんにも35年ぶりに電話しました。彼も懐かしさのあまり電話を切ろうとせずに延々と自分のことをすべて話そうとした。それから大学卒後に勤務していた海運会社で親しくいていたNTくん、45年ぶりに話をしたらわたしのことをわたし以上に覚えてくれていました。彼はまだ現役で東京で会計士事務所をしています。大学時代からの付き合いのあるHSくんは名古屋で航空機部品の製造会社を経営しているが航空機関係の受注が激減、リストラと転用課題その他社内の人事問題、事業承継の問題など深刻な悩みを抱え、電話があると彼はすべてを話そうとするので1時間以上に及びます。話しは重たく解決が困難な問題。社内や株主に敵対する人間がいてそんな困った状況をわたしに聞いてほしいんだ。その他に15年以上前にブログで多少のやりとりがあったerimaさん、インターネットで検索したら彼女はまだ当時のブログを何と継続中、15年ぶりに書き込みをし旧交を温めています。彼女は壮絶で悲惨な少女時代を経てモデル業をしていたが、現在は横浜でイタリアンの美味しいと高い評価(食べログ3.5Google4.5)の店を最愛のご主人と経営しています。コロナ自粛期間には店を締め、二人で東海道53次を走破。元気で幸せそう。わたしが高校時代同じ学年にいた学校で一番の美人で高校卒業し大学に入学した時、一時文通していたKYさんの消息もわかりました。偶然がいくつも重なって出会った人がいます。母方のいとこ孝次郎さんです。母方といっても母が亡くなったのは50年も前で出身地は長崎です。母の兄弟もみんな他界していて、いとことの付き合いなどまったくありませんでした。林孝次郎さんとわたしと出会ったのは偶然というか信じられないほどの偶然です。2009年にわたしのホームページ[上海からの手紙]を孝次郎さんの甥が偶然見つけたからです。上海からの手紙というのはわたしの母が戦時中に上海から一番仲の良かった兄に送った手紙のことです。母は軍人であった養父に同行し上海の高等女学校に在校、兄は病気のため戦地から帰還し福岡の療養所にいました。わたしはその手紙を母が亡くなった葬儀の時にその兄からいただき、上海からの手紙とタイトルをつけホームページに上げていました。そもそもこのホームページはハンドルネームで自分だけのために書いたもので、わたしの知人や友人、一般には公開しておらず、その甥が発見しそれを叔父に伝えたこと自体奇跡的なことです。そして孝次郎さんはコメントを投稿、それを見たわたしが返事をしたのがキッカケでした。母が手紙を送った兄は孝次郎さんの父でした。わたしたちはメールで祖先や家系のこと、自分たちのことを話しました。しかしその後10年以上孝次郎さんとは音信不通でしたが2020年の1月、孝次郎さんのことを思い出し彼のブログがまだあるのだろうかと半信半疑で探したところ、なんとか見つかったので書き込みをしました。しかし何の返事もないまま10ケ月も過ぎた同年の11月にわたしの書き込みを見た孝次郎さんから突然電話がありびっくり仰天。12年ぶりの交流。彼のブログのタイトルをわたしが覚えていてそのブログがまだ存在したのでコンタクトが取れたわけです。しかも書き込みをして10か月も過ぎて彼がその書き込みを発見、偶然が再び起こったとしか言いようがありません。福岡出身の孝次郎さんは現在は岐阜県高山市に住んでいて一昨年退職されたとのこと。自宅は福岡にあるが高山で長年暮らし帰省する気がなくなってきたとか。もう70歳になられたとのこと。孝次郎さんにとってわたしの母は叔母、わたしにとって孝次郎さんの父は叔父、その叔父や叔母も既に他界していてその子供たち(いとこ)との交流などもまったくなかったが、このような偶然が重なりお互いが高齢になって初めて母方のいとこと会話をしました。母の旧姓である林の姓を持つ人、母をよく覚えている人と交流が持てたことは感無量。昨年に初めてもらった年賀状が今年も届きました。 話しが随分脱線しましたがのほほんな話に戻ります。次に時間をかけた余暇活動は、やはり旅行かな。何十回も各地を旅行したが歳のせいか旅行で感動することもすっかりなくなったが、八重山諸島の[小浜島はいむるぶし]で初めて[シュノーケリング]をした時がたいへんだったな。溺れかけ焦った。慣れないシュノーケリングと暑さでへとへとになったが、ビーチカフェでマンゴーたっぷりジュースを飲み生き返った。透明度抜群の遠浅の南国の海を泳いだ快感は幸せな時間だったかな。次に思い出すとしたら高知の[仁淀ブルー]と[柏島ブルー]かな。透明度が半端じゃなかった。酷道439号線で四万十市まで、この悪道には往生した。抜けるのに4時間以上かかり、すっかり日が沈みようやく到着した民宿[魚ごころ]女将さん嫌な顔もせずにしばし歓談、新鮮な魚介料理が美味しかった。長時間危険な林道をドライブをし、疲れきった身体を癒してくれた。他に旅の思い出として忘れられないのは十津川温泉で宿泊した帰り、果無集落に立ち寄ったことです。果無集落の入口には世界遺産熊野古道の石碑が建っていて、石畳の道を行くのですが、その石畳を行くと見えてきたのは家の縁側、世界遺産が敷地内にあって生活の一部になっていました。岩本さん宅の縁側と離れとの間にある石畳の前には、湧き水が引いてあり、世界遺産を行く人は天然のおいしい水で喉を潤し、岩本さん宅の縁側でしばしの休息をとるそうです。そんな岩本のおばあちゃんの姿を見ましたので、縁側に座ってしばしお話をし記念写真を撮らせていただきました。大正13年生まれ。岩本さんは田舎のおばあちゃんという言葉がぴったりのあたたかい方で癒されました。 十津川村観光協会に電話をして「十津川村のポスターあればわけていただけませんか」「ありますよ。果無のおばあちゃんのですか」[十津川村の観光ポスター(B1サイズ)]に掲載されていて知る人ぞ知る有名なおばあちゃんでした。 外食ではホテルのビュッフェや近場のレストランなどいろんなとこに行ったが、再度山ドライブウェイの高級イタリヤン[ジャンカルド]は一品一品が一口か二口で極端に少ないのにボーイの説明はやたら長かった。牛窓の前島の民宿[南風荘の夕食]は姿造り、魚丸ごと塩焼き、南蛮漬け、煮付け、魚唐揚げ、天婦羅などこれでもかと出され、腹一杯で食べ残した魚は翌朝の朝食に出されたがさすがに食えなかった。食い倒れというのはこのことを言うんだろう。食いすぎておしゃべりもできなくなった。自然いっぱいのロケーションにあるカフェ(山.海.川辺.湖畔.田んぼカフェ)は大好きでカフェコーナーにもお気に入りカフェを掲載してるが、中でも河内長野市滝畑ダム湖畔の[One day a Week]には癒されました。オープンテラスのカフェの背面は森、前面は湖を見下ろし湖畔の風が爽やかだった。営業時間はお昼過ぎから対岸の山頂が日没まで。営業期間は4月下旬から10月下旬、寒い季節天候不順な日は休業。オーナー曰く「電話番号告知したら忙しくなり対応できなくなるから告知しません。ホームページも作らずグルメサイトにも掲載しない」とのこと。開業時は店名Two days a weekで土日の週2日だったがオーナーは平日はサラリーマンしていて「しんどくなりOne dayにした」という。従って店名も変更になりました。ある日ボーカルジャズがかけられていたのでオーナーから[トニーベネットのCDコピー]をいただきました。すべてがファジーなのが時間に追われ日常生活を送っている者にとっては最高でした。店にいないと閉店時間-対岸の山頂が日没になる時間がわからない(笑) まだ廃業せずにやってるだろうか。その他一時期一生懸命になったことに動画編集アプリinShotを使ってYouTubeへのUP。40本位UPしたかな。わいも憧れのYouTuberの仲間入り。 それとアルバム編集アプリDreamPagesを使ってアルバム作成。わいもクリエイターの端くれや。 最近始めた趣味は【防潮堤(seawall)】に描かれた子供たちの絵画と【壁面(wall)】に描かれたアーティストによるミューラルアート(壁画)の撮影とホームページへのUP。わざわざ家島の漁港まで姫路から渡船に乗り多大な時間と費用をかけ撮影に行ったりした。湾岸線を95キロ走行し神戸から岬町まで行ったりおよそ一ヶ月で大阪兵庫で12ヶ所を探して撮影。「何やってんねん、何が面白いねん、暇やなあ他にもっとすることあるやろ」と言われても困るけど。感性と価値観の違いから。その他趣味として美術品(油彩.版画.彫刻)と工芸品(陶器.金属.木彫.ガラス)のコレクションが多少あり。30点くらいやからコレクターとは言えません。変わったコレクションとしては貝殻、ブイ、浮き玉、ボトルシップ、サルノコシカケ、標識(熊出没注意、海抜)など。それぞれ魅力あるオブジェクト、説明すると長くなるからしません。これまでFREETIMEに何に興味を持ち何をしてきたか思い出すままに書いてきましたがあまり文化的なアクティビティをしてきたとは言えません。映画演劇ドラマアニメは基本的に見ませんし小説も読みません。関心は専ら現実的なニュース、ドキュメンタリーだけです。リアルのみでバーチャルの世界まで心の余裕がありません。テレビ東京の「家ついて行っていいですか」朝日放送テレビの「ポツンと一軒家」ニッポン放送「テレフォン人生相談」などに紹介される幸福の有り様、人間模様、人生の機微に触れる番組はよく視聴したのでアクティビティに付け足したい([ ]は写真あり)2021 


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日本淡水魚/熱帯魚/海水魚/両生類